第19話
文字数 3,819文字
ロッティを乗せた舟が地上に着き、ロッティは肩に担ぐノアを抱え直し、ノアに負担を掛けないように慎重に歩き始めた。
「分からないけど……たとえ間違えていたとしても、あの人たちは誰もお前のことは責めないと思う」
ロッティはアリスのことを思い出していた。アリスがグランに言っていたことを、思い出していた。
「もし俺がお前に負けて、望み通りに世界をめちゃくちゃにして、その後、遠い未来で初めてとんでもないことをしてしまったんだと、間違っていたと感じたとしても……もしこれから先、俺がお前に勝ったばっかりに自分たちがどんなに酷い目に遭ったとしても……きっと、赦してくれると思う。あの人たちは、それでもお前と一緒に生きていたかったって言ってくれると思う」
「…………そうか」
「……まあ、あの人たちが酷い目に遭わないようにも、俺は頑張ってみるから」
「…………そう、か」
一度だけ、肩に雫が滴った。その雫の温もりに、ロッティは、今こうして立って歩いているのが自分で良かったと心の底から思えた。そう思い込みたいだけだったとしても、今こうして立っていることが、自分の信じたものを信じ切ることが出来た証拠であるような気がして、疲れ切った心が満たされていった。
ノアの仲間に向かって歩いていると、その先頭を歩いていた女性が突然飛び出すようにして走ってきた。
「ノア!」
堰が切れたように流れる涙は女性の顔を歪めながら風に流され、途中で何度も躓きながらも、それを意に介することもなく走ってきていた。背にいるノアがロッティから降りようとする気配があり、ロッティはゆっくりとノアの足を地面に着かせる。ノアは一歩、また一歩と、地面を噛みしめるようにしながらその女性に向かっていった。
女性が転んだ。すぐに立ち上がれずに、蹲ったまま声をあげて泣いていた。ノアはその女性の前まで行くと、ゆっくりと腰を下ろし女性の頭を撫でた。
「エルマ、済まないな……約束、果たせそうに、ない」
エルマと呼ばれた女性が何かごにょごにょと言っているようであるが、ガーネットほど耳の良くないロッティは上手く聞き取れなかった。ノアにはしっかりと聞こえていたようで、ゆっくりと首を横に振る。
「俺の、望みも、力も、すべてが敗れた。もう、いいんだ……俺は、このままロッティの手で」
「待って!」
蹲ったまま叫んだと思うと、エルマは顔をあげてノアの手を握った。エルマは手のしわを確認するかのようにノアの掌を愛おしそうに見つめていた。ノアはくすぐったそうにわずかに体を揺らしたが、もしかしたらもう体の限界が近いのかもしれない。それでもエルマは、出かけないで欲しいと父親にねだる娘を思わせる仕草で手を掴んだまま離さなかった。
「皆と話し合って、決めていたことがあるの。ノアと一緒に生きるって決めたあの時に。私たちは、ノアと一緒に生きる。そして、もしこの運命の争いの中でノアが死ぬことになったとしたら、私たちも一緒に死のうって」
エルマの目尻から涙が零れ、握られた二人の手を濡らした。
ノアの震えが大きくなった、ような気がした。
「ねえ、ノア。私たちは、ずっと一緒だから。貴方を一人には、しないから」
エルマは涙を拭うが、いくら拭えど瞳からあふれ出る勢いは収まらず、やがてそれも諦めてノアの手にもう片方の手も重ねる。エルマは一度ゆっくりと瞬きをすると、ゆっくりとその涙を流しっぱなしの瞳をロッティへと向けた。ガーネットと同じようにその瞳はやがて赤色に変わっていく。
迷いなくまっすぐ見つめてくる瞳に、ロッティはどうすれば良いか分からず途方に暮れた。しかし、その心境を悟ったようにロッティの視界を血に濡れた手が遮った。
「ロッティ……少し、待ってくれ」
ノアはエルマが支えようとするのも制して、その場で横にゆっくりと倒れ、空を見上げた。それまで背を向けて隠れていたノアの表情は、どこか清々しい表情をしており、涙の跡が却ってノアの顔を芸術品のように美しくさせていた。エルマの顔が何かを察したようにわずかに歪み始めた。
「俺は……エルマたちには、死んでほしく、ないんだ。絶対に、死なせたく、ない」
直後、動かないノアの全身が弱々しい光に包まれ始めた。その瞬間に、エルマはノアの傍に寄り添い、痛みを堪えるような表情でノアを見つめる。
時折ノアは苦しそうに血を吐き出すも、その血飛沫は空中で天へ吸い込まれるように光を纏いながら消えていった。ロッティはその現象を初めて見るにもかかわらず、ノアがエルマたちを守ろうとしていることはすぐに分かった。
「ロッティ……お前が、決めて良い。俺が転生する前に俺を殺しても、かまわない。だが……俺がどうなろうと、エルマたちだけは、助けてやってくれ」
エルマが傍らで何かを言いたそうに口を開いたり、息を呑んだりしているが、結局何も言い出すことなく、旅立とうとしているノアを見守るようにゆっくりとノアの頭を撫で始めた。ボロボロの体のノアにその手の感触はもう届いていないだろうに、安心したような表情でエルマの頬に手を伸ばした。
「正直、俺は……お前を許せるかは、分からない」
ふとロッティの脳内に、養親やピリスと過ごした日々が、セリアとブルーノと過ごした日々が、頭を過った。そして、自分を一心に思ってくれていた姉の最期と、グランの全てを諦めたような表情。しかし、それらはもうすっかり遠いものになってしまい、あらゆる手段を尽くしたところで取り返すことが出来ないものであることは、胸が締め付けられるほど痛感していた。
「でも……ここで俺がお前を殺しちゃ、ダメなんだ。俺は……俺が望んだのは、俺が信じたのは、そんな世界じゃ、ないんだ」
ロッティは無意識にぎゅっと握った拳を緩め、アリスの笑顔を思い返していた。アリスに託された想いが、自分も垣間見ることの出来たアリスの信じるこの世界の優しい温もりが、自分の心の弱さを打ち破った。
その返答に満足したのか、ノアはエルマの頬に伸ばした手も下ろし、眠るように静かに瞳を閉じた。エルマがノアの体を抱え上げて、じっとノアの寝顔を覗き込んだ。
「エルマ……」
「はい、何でしょうか」
そのやり取りは、まるでアリスとグランの関係を彷彿とさせた。あまりにも人間的で、神秘的で、穢すことも許されないような、この世界の優しさをぎゅっと凝縮させたような光景だった。
「俺は……また、お前に会いに行く」
「はい」
「生まれ変わっても、またお前に会いに行く。だから、それまで、お前には生きていてほしい……良いか?」
「はい、もちろんです……約束、ですよ?」
エルマはあふれ出る涙を取り繕うこともなく、一秒でも長くノアの姿を瞳に焼き付けようとしていた。エルマの後ろにいた人たちからも嗚咽を漏らす声が大きくなっていった。ロッティも、亡くなった人たちを偲びながらも、ノアが旅立ちを見守った。
「ロッティ……あとのことは、こいつらのことは、頼んだぞ」
ノアは力を振り絞るようにして声を震わせながらそれだけ言うと、ロッティが答える間もなく無数の光の粒となってしまった。エルマはそれらを掬い上げるように胸の内に抱き込んだ。それでもエルマの胸の内から光の粒は漏れ出てきて、そして、まるでノアの存在が別次元のどこかへと旅立ったかのように、ノアの痕跡は跡形もなくこの世から消え去った。
「ありがとう、ロッティ君……」
エルマは最後にそれだけ言うと、それまで堪えていたのであろう感情を吐き出すかのように、エルマは嗚咽を漏らし始めた。他の者たちもそれに釣られるようにして声を大きくさせた。
ロッティは光が消えていった空を見上げた。しかしそこにはノアの姿はどこにもなく、雲がまばらに浮かんでいる青空が広がっているだけであった。エルマたちの慟哭だけが空しく響き続けた。
シリウスの入り口に通じる橋は下がっていた。ロッティはノアの連れていた人たちを引き連れてシリウスの橋を渡っていく。能力を使って、彼らを浮かばせた状態で連れているため、あちこちで困惑するような声が上がっていた。
ロッティとノアの戦闘によるものだろうか、街は建物の一部が崩れたり、羽根が突き刺さったりしていた。そんな街並みを背景に、冷静な顔つきでロッティたちを出迎える人影があった。その人影に向けて、ロッティは手を振った。
「お帰りなさいませ、ロッティ様」
三年近くの年月を経ても、そのときと全く変わらない声と容姿で出迎えてくれたフルールは、ロッティたちの訪問に対して深くお辞儀をした。あまりの変わらなさと懐かしさにロッティもようやくすべてが終わったことを実感し、「フルール」と呼びかけた。フルールはゆっくりと顔をあげた。
「この人たちに柔らかい毛布と紅茶……何か温かい飲み物をお願いしたい。それと、しばらく住むための場所も……協力してもらってもいいか」
「かしこまりました。それでは案内致します。これからよろしくお願いします、リベルハイトの皆様。私たちは、貴方たちを歓迎します」
フルールの声は至って単調で、抑揚ない話し方だったが、そこには確かに歓迎の温かさがあった。ブルーメルのことを言及せず、リベルハイトを迎え入れようとするフルールに、ロッティはこれから新しい日々が始まるのをひしひしと感じていた。