第2話

文字数 2,931文字

 広大な敷地を持つ帝都の中でも、政治支配のいまいち行き届いていない下町地域の一部屋でグランは寝泊まりしていた。窓とも呼べない壁の穴から外を見下ろせば、薄汚れた気配がこの区域を支配していた。グランとしてはこんなところに一秒でもいたくはなかったのだが、アリスという少女の力強い行動力に引っ張られてやってきていた。本来ならグランにとって帝都は最も近づくべきではない場所なのだが、この地域は案外死角をついた場所なのかもしれないと、この地域に住んでまともに保護されていない人々を見て思った。グランは帝都の中心奥に聳え立つ城を忌々しく睨みつける。
「ごめんね、そのうち貴方のお家を用意するからね」
 人をもう信じたくはないグランであったが、何故だかアリスの言葉には素直に従ってしまっていた。あの美しい顔をもう一度拝みたいと望んでいるのか、それとも利用できる生き物であると認めたからなのかは、自分でも分からなかった。殺そうと思えばすぐにでも殺せる相手に為すがままにされているというのに不思議と怒りが湧いてこないのも、奇妙な感じがした。
 昼を過ぎ、少し陽が傾き始めた頃に決まってアリスはこの地域に訪れてきた。傍らには城内での付き人らしき人を従えているとはいえ、この地域に貴族の人間がやってきては何が起こるか分からない。そう思い、グランはその時間帯になるとこの地域の入り口辺りを見張り、アリスの姿がやってくると急いで建物から出てアリスを出迎えた。自分でもこんなことをして何の意味があるのかと自分で自分の行動に疑問を持つのだが、出迎えるたびに純粋にはしゃぎ、満面の笑みを浮かべるアリスに、そんな疑問を持つのも馬鹿バカしくなってしまっていた。その後はアリスの話を聞きながら適当に街に出てぶらぶらするのが主だった。
 そんな風に過ごしていても、いつかこの少女も殺すことになるのかもしれない。必死に自分にそう言い聞かせながら、アリスとの距離を一定に保っていた。
 陽が暮れ始め、もうすぐで日の入りになるという頃合いになると、アリスは城へと戻っていく。アリスは今のところ高貴な出自であることを感じさせない幼さをしているが、それでも次期皇女の候補であり、今はそのための修行や勉学の時期であるのだという。そのためにあまり遅い時間まではここにはいられない、というのだが、そもそもがこんなところで油を売るのもどうなのかとグランには疑問だった。次期皇女争いについて何か詳しいことが分かればこの地上の人間に一泡吹かせられるのではないかと算段を立てようと質問をするのだが、肩透かしのようにアリスは特に何か詳しいことを知っている様子もなく、決まって暗い顔をするだけであった。その暗い顔には、あの日初めて会ったときの美しい姿の面影はどこにもなかった。グランは、ますますアリスのことが分からなくなった。
 夜が訪れると、辺りは不気味なほど静かになった。正確に言えば建物の下の方でこの区域の住人たちが何やら蠢いている気配がして、虫が騒いでいるかのような不快な空気が漂っていた。それでも静かになったと、グランは強烈に思っていた。
 いつしかアリスを殺すかもしれない。そんな日が来たときには、この静けさは永遠に続くことになるのだろうなと思いながら夜空に浮かぶ月を眺め、自身に深く刻まれた遥か遠くの記憶を思い返していた。

 そんな生活が続いたある日、アリスが夕方を過ぎても来ない日があった。次の日も、その次の日も、来ない日が何日も続いた。とうとう自分に飽いたのかと思い、これでアリスとの距離に悩む必要はなくなったことを喜ぼうとしたのだが、その気力もなくなるほど異様に心が渇いていった。予想していた静けさが来る日も来る日も訪れ、その静けさは徐々に心に穴を開けていった。人などもう信じない気でいたはずなのに、たった一人の少女に惑わされる自分が歯痒かった。
 もうアリスは来ないだろう。そう思いどこか遠くへ旅立とうと試みようとしても、この静けさはどこまで行っても収まることはないだろうという呪いめいた確信に、結局どこにも動けずにいた。そんな風に無気力になりながら迷っている間に、アリスが唐突に姿を現した。
「ごめんね、ちょっと色々忙しかったの」
 そう悪びれるアリスの顔色は白く、両指を絆創膏だらけにした手でグランの手を握った。
「でも、来てほしいところがあるの! 行こう、グラン」
 あの日と同じように、アリスの手が力強くグランの手を握った。アリス自身は幼く小柄であるにもかかわらず、その手はいつも妙に力強く、グランは振りほどける気がしなかった。傷だらけの手になってもそれは変わらなかった。
 下町区域を抜け、帝都内の住宅街へと入っていき、転生してから久しく見ていなかった人間の往来が多くなってきた。そのままアリスの手に引かれてたどり着いたのは、他の色鮮やかな住宅とは異なり、地味な色をした粗雑な木造の小屋であった。
「さあ、入って」
 アリスに背中を押されその扉を開ける。内装は大きなテーブルにそれを囲うように配置された簡単な造りの椅子、その奥には何も物が並んでいない棚や細長いテーブル、シンクなどが見えた。さらに脇にはいくつか扉があった。
「どうグラン? 感想は?」
 尻尾があったらぶんぶんと振っていそうな声音のアリスに、グランは戸惑う。
「どうって言われても……家だな、としか」
「そうでしょうそうでしょう! だって、今日からここは貴方の家なんですから!」
 素っ気ないグランの返答にもアリスはテンションを高くした。付き人を連れてアリスも中へ入ると一つ一つの家具を撫でるように触りながら歳相応にはしゃいで回った。やがて落ち着いたアリスは細長いテーブルの向こうからグランを優しく見つめてきた。
「貴方のお家、用意できて嬉しいの。貴方にはちゃんとした場所で住んで欲しいんですもの」
 アリスは色の悪い顔でニコっと笑った。その笑顔は、まさしくあの日に見た美しいものそのものだった。グランはその笑顔に惹かれるように足が動き、いつの間にかアリスのことを抱きしめていた。抱きしめて初めて、アリスの体がいかに細く脆いものなのかに気がついた。アリスの体は、どうしようもなく小さく、どんな人間よりも弱い生き物のように思った。
「グラン、どうしちゃったの? 具合悪いの?」
 胸の内で聞こえるその声が、力を緩めてしまえばすぐにどこかへと消えてしまいそうな儚いもののように思えて、その手を解くことが出来ないでいた。
 良くないと、このままではいけないと、頭のどこかで強く警告する自分がいた。しかしそうであると頭では理解しているのに、アリスを抱きしめる手は離れてくれなかった。長い生の中でとっくの昔に置いてきたものが蘇りかけて、頭はすっかり混乱していた。
 グランは自分で自分を許せなくなった。しかしそれ以上に、たとえどんなに短い時間になろうとも、少しだけ憎悪の道から外れて心地良い道に足を伸ばしていたいという気持ちが強くなってしまっていた。連れられてからずっとこの帝都から離れなかったのも、アリスの純粋な眩しさにもう少しだけ触れていたかったからなのだと、グランははっきりと心の中で認めた。
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登場人物紹介

ロッティ

主人公。

孤児院→ある街の夫婦に引き取られる→街を出て冒険家団体『ルミエール』に拾われる→ガーネットと共に旅に出る。目で見たモノを、手も触れずに操る能力を持つ。

ガーネット

初対面であるロッティの名前と『ルミエール』の元メンバーであったことを知っていた不思議な女性。自称だが100歳を超えているという。

ハルト

ロッティとほぼ同じ時期に『ルミエール』に拾われる。ロッティの能力を知る。能天気で明るい性格。

ルイ

ロッティやハルトと同じように『ルミエール』に拾われる。女好きでお調子者な性格だが時折鋭い。

ブラウ・フォレッツ

『ルミエール』の団長。豪快で大胆な性格。

セリア

学び舎でロッティと仲良くしていた女の子。エルフ族であったブルーノと親友であった。

ピリス

ロッティを拾った孤児院の院長。ロッティが再び会いに行こうとしたら既に亡くなっていた。

シャルル

リュウセイ鳥の伝説のある街にて鉱山発掘に赴く記憶喪失の青年。

トム

リュウセイ鳥の伝説のある街にて鉱山発掘に熱心な少年。

フルール

機械都市シリウスのメイド的存在。委員会に所属するブルーメルの付き人。

ブルーメル

機械都市シリウスにおける委員会の一人。ガーネットに委員会に入るよう依頼する。

シャルロッテ

慈善団体『シャイン』の副団長。陽気な性格。

シルヴァン

慈善活動団体『シャイン』の団長。ぶっきらぼうな性格でブラウとは古くからの仲らしい。

クレール

冒険家団体『ルミエール』の頭脳担当にして、ブラウよりも古参のメンバー。

アベル

冒険家団体『ルミエール』の特攻隊。足りない頭脳は腕で補う、とのこと。

ジル

冒険家団体『ルミエール』のロッティよりも新参のメンバー。元々はアランと探偵稼業を行なっていた。

イグナーツ

フラネージュ近くの洞窟で『ルミエール』と出会った大柄な男。

ニコラス

シルヴァンと親しいという、軽い感じの男。ハルトを気に入る。

ヨハン・ジルベール

ロッティ、ガーネットたちと敵対する不思議な雰囲気の男。

アリス・ヴェイユ

帝都の次期皇女候補の第六娘。グランと心を通わせる。

グラン

幻獣族。アリスに与えられた家に住んでいる。

カイン・シャミナード

傭兵団体『シュヴァルツ』の団長。ブラウとシルヴァンとは小さい頃からの知り合い。

レオン

幻獣族。ステファニーと仲が良い。

ステファニー

レオンと仲が良いお淑やかな女性。アリスと仲良くなれて嬉しい。

バニラ

アリス・ヴェイユの付き人。物静かで目立とうとしない。

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