第2話
文字数 2,931文字
「ごめんね、そのうち貴方のお家を用意するからね」
人をもう信じたくはないグランであったが、何故だかアリスの言葉には素直に従ってしまっていた。あの美しい顔をもう一度拝みたいと望んでいるのか、それとも利用できる生き物であると認めたからなのかは、自分でも分からなかった。殺そうと思えばすぐにでも殺せる相手に為すがままにされているというのに不思議と怒りが湧いてこないのも、奇妙な感じがした。
昼を過ぎ、少し陽が傾き始めた頃に決まってアリスはこの地域に訪れてきた。傍らには城内での付き人らしき人を従えているとはいえ、この地域に貴族の人間がやってきては何が起こるか分からない。そう思い、グランはその時間帯になるとこの地域の入り口辺りを見張り、アリスの姿がやってくると急いで建物から出てアリスを出迎えた。自分でもこんなことをして何の意味があるのかと自分で自分の行動に疑問を持つのだが、出迎えるたびに純粋にはしゃぎ、満面の笑みを浮かべるアリスに、そんな疑問を持つのも馬鹿バカしくなってしまっていた。その後はアリスの話を聞きながら適当に街に出てぶらぶらするのが主だった。
そんな風に過ごしていても、いつかこの少女も殺すことになるのかもしれない。必死に自分にそう言い聞かせながら、アリスとの距離を一定に保っていた。
陽が暮れ始め、もうすぐで日の入りになるという頃合いになると、アリスは城へと戻っていく。アリスは今のところ高貴な出自であることを感じさせない幼さをしているが、それでも次期皇女の候補であり、今はそのための修行や勉学の時期であるのだという。そのためにあまり遅い時間まではここにはいられない、というのだが、そもそもがこんなところで油を売るのもどうなのかとグランには疑問だった。次期皇女争いについて何か詳しいことが分かればこの地上の人間に一泡吹かせられるのではないかと算段を立てようと質問をするのだが、肩透かしのようにアリスは特に何か詳しいことを知っている様子もなく、決まって暗い顔をするだけであった。その暗い顔には、あの日初めて会ったときの美しい姿の面影はどこにもなかった。グランは、ますますアリスのことが分からなくなった。
夜が訪れると、辺りは不気味なほど静かになった。正確に言えば建物の下の方でこの区域の住人たちが何やら蠢いている気配がして、虫が騒いでいるかのような不快な空気が漂っていた。それでも静かになったと、グランは強烈に思っていた。
いつしかアリスを殺すかもしれない。そんな日が来たときには、この静けさは永遠に続くことになるのだろうなと思いながら夜空に浮かぶ月を眺め、自身に深く刻まれた遥か遠くの記憶を思い返していた。
そんな生活が続いたある日、アリスが夕方を過ぎても来ない日があった。次の日も、その次の日も、来ない日が何日も続いた。とうとう自分に飽いたのかと思い、これでアリスとの距離に悩む必要はなくなったことを喜ぼうとしたのだが、その気力もなくなるほど異様に心が渇いていった。予想していた静けさが来る日も来る日も訪れ、その静けさは徐々に心に穴を開けていった。人などもう信じない気でいたはずなのに、たった一人の少女に惑わされる自分が歯痒かった。
もうアリスは来ないだろう。そう思いどこか遠くへ旅立とうと試みようとしても、この静けさはどこまで行っても収まることはないだろうという呪いめいた確信に、結局どこにも動けずにいた。そんな風に無気力になりながら迷っている間に、アリスが唐突に姿を現した。
「ごめんね、ちょっと色々忙しかったの」
そう悪びれるアリスの顔色は白く、両指を絆創膏だらけにした手でグランの手を握った。
「でも、来てほしいところがあるの! 行こう、グラン」
あの日と同じように、アリスの手が力強くグランの手を握った。アリス自身は幼く小柄であるにもかかわらず、その手はいつも妙に力強く、グランは振りほどける気がしなかった。傷だらけの手になってもそれは変わらなかった。
下町区域を抜け、帝都内の住宅街へと入っていき、転生してから久しく見ていなかった人間の往来が多くなってきた。そのままアリスの手に引かれてたどり着いたのは、他の色鮮やかな住宅とは異なり、地味な色をした粗雑な木造の小屋であった。
「さあ、入って」
アリスに背中を押されその扉を開ける。内装は大きなテーブルにそれを囲うように配置された簡単な造りの椅子、その奥には何も物が並んでいない棚や細長いテーブル、シンクなどが見えた。さらに脇にはいくつか扉があった。
「どうグラン? 感想は?」
尻尾があったらぶんぶんと振っていそうな声音のアリスに、グランは戸惑う。
「どうって言われても……家だな、としか」
「そうでしょうそうでしょう! だって、今日からここは貴方の家なんですから!」
素っ気ないグランの返答にもアリスはテンションを高くした。付き人を連れてアリスも中へ入ると一つ一つの家具を撫でるように触りながら歳相応にはしゃいで回った。やがて落ち着いたアリスは細長いテーブルの向こうからグランを優しく見つめてきた。
「貴方のお家、用意できて嬉しいの。貴方にはちゃんとした場所で住んで欲しいんですもの」
アリスは色の悪い顔でニコっと笑った。その笑顔は、まさしくあの日に見た美しいものそのものだった。グランはその笑顔に惹かれるように足が動き、いつの間にかアリスのことを抱きしめていた。抱きしめて初めて、アリスの体がいかに細く脆いものなのかに気がついた。アリスの体は、どうしようもなく小さく、どんな人間よりも弱い生き物のように思った。
「グラン、どうしちゃったの? 具合悪いの?」
胸の内で聞こえるその声が、力を緩めてしまえばすぐにどこかへと消えてしまいそうな儚いもののように思えて、その手を解くことが出来ないでいた。
良くないと、このままではいけないと、頭のどこかで強く警告する自分がいた。しかしそうであると頭では理解しているのに、アリスを抱きしめる手は離れてくれなかった。長い生の中でとっくの昔に置いてきたものが蘇りかけて、頭はすっかり混乱していた。
グランは自分で自分を許せなくなった。しかしそれ以上に、たとえどんなに短い時間になろうとも、少しだけ憎悪の道から外れて心地良い道に足を伸ばしていたいという気持ちが強くなってしまっていた。連れられてからずっとこの帝都から離れなかったのも、アリスの純粋な眩しさにもう少しだけ触れていたかったからなのだと、グランははっきりと心の中で認めた。