第3話
文字数 3,623文字
アリスは以前と同じように付き人を伴いながらグランのところにやって来ていた。むしろ、グランの住む場所が城に近いところになったためか、以前よりも来る時間は早くなっていた。アリスの付き人は相変わらずグランから見ても何を考えているかは分からなかったが、少なくともアリスを見守るその目つきは本物の保護者のそれだった。アリスはそうやってグランのところに来ては、台所——細長いテーブルとシンクに挟まれた部分をそう呼ぶことをアリスから聞いた——でお茶を淹れたりお菓子を焼いたりして、それらをグランと付き人とに振る舞った。テーブルでグランと向かい合ったアリスは、城の中で学んだことや自分を気にかけてくれる姉についての話を主にしていた。グランは黙って聞いているだけだったのだが、アリスが帰る頃になるといつも満足そうな顔を浮かべて必ず「また明日!」と言って去っていくのだった。その後ろ姿を見送って、明日を待つのがすっかり日課となっていた。
アリスは次期皇女候補のうち、六番目の候補娘であった。帝都の実権を巡り争う地位にはいるらしいが、その中でもどうやら序列や待遇の違いはあるらしく、アリスの家系は城の中ではそこまで恵まれていない方であるらしい。アリスは詳しくは話さないが、時折顔色を悪くさせたままやってくるときや、体のどこかを痛めたように歩き方がおかしくなっているとき、ごく稀に明らかに元気のない様子でグランから声を掛けないと自分から話そうとしないときも、あった。しかしそれでもアリスは毎日やってきていた。それが城での生活の辛さを物語っているのと同時に、グランに与えたこの小屋が唯一の避難所のようになっている気がしていた。それを感じてからは、グランはアリスに城のことについて何か詮索するのを止め、アリスもそれを気にすることはなかった。
大きく喜ばしいことがあるわけでもないが不満に思うこともないそんなある日、アリスがいつもの時間にやって来ない日に、一人の男がやってきた。人間にしてはやけに長身で、ラフな服装をしていかにも体力ある若者然としていながら、瞳に深く暗い翳を落としているその男は、グランを一瞥すると悲しそうな表情を浮かべた。
「お前の牙は、どこになくなった」
出会い頭にこんなことを言う人間、生き物に心当たりのあったグランは椅子に座ったままその男を睨みつける。
「どうせ牙をむいたって、いつも俺たちは挫かれてきただろ」
「お前があの女の子にご執心なのは知っている」
かっと頭に血が上る感覚がした。その瞬間、その男はますます悲しそうに目を伏せた。
「それでも俺たちは、いつも裏切られてきた。この世界に俺たちの居場所はないはずだ。数千年間、それをとくと味わってきただろう」
「……何が言いてえんだよ」
「ああ……近々、今度こそこの世界に牙をむいてやるんだ」
男は憎悪の炎をちらつかせながら、グランに手を差し伸べた。
「俺たちのいた大陸から、ミスティカ族が流れてきた。彼らの大半が、俺たちと同じ考えを持ち、俺たちに協力してくれると言ってくれている。世界を、大きく変えられるぞ」
その言葉の端々からその男の高揚感が滲み出ていた。伸ばされた手がわずかに震えていた。
「ようやく、俺たちの世界を取り戻せるんだ。あの頃の、平穏な日々を、世界を。お前も、俺も、自由に生きられるんだぞ」
そう語る男の顔は逆光となっていてよく分からなかったが、それでも嬉々として語るその口振りはどこか少年のように興奮していた。グランは差し伸べられた手をじっと見つめた。その手の背後に、太古の記憶にある自由な生活が蘇ってきたが、アリスの顔も同時に浮かび上がってきた。
この手を取ってしまえば、アリスとはもう離れ離れになるだろう。
いつしかアリスを殺すことになるかもしれない。この現世に転生し、アリスと初めて会ったときからずっと自分に言い聞かせていたことだったが、いまだにその光景をくっきりと思い浮かべることが出来ないでいた。
結局その男の手を取ることは出来なかった。長い時間手を差し伸べ続けた男は、グランの顔を見て何かを察したかのようにそっと手を引っ込めた。
「覚悟が決まったらいつでも来い。俺たちは、お前を決して裏切らない。その日が来るのを、俺たちはいつまでも待っている」
その男はくるりと踵を返してグランの小屋を去っていった。ゆっくりと扉が閉まっていき、再び小屋の中を静寂が包んだ。今日はアリスが来るのが遅いな、とグランはぼんやりと思った。
静寂が煩わしく、テーブルに突っ伏してぼんやりしていると、再び扉が開かれた。アリスがやって来たかと顔を上げると、やって来たのはアリスの傍にいて離れなかった付き人だけであった。
「アリスはどうしたんだ」
「忘れ物をしたと言って一度お帰りになられた」
付き人の声を初めて聞いたが、アリスと違ってかすれ気味で、女性らしからぬ低い声だった。
グランは立ち上がり、その付き人のために椅子を引こうと背を向けた。
そのとき、突然後ろからぶつかるように押され床に倒れてしまう。腕を背の方で一か所に組み伏せられ、右の脇腹に何か鋭い物が突き刺さる感覚がした。何事かと振り返ろうとしても頭を乱暴に床に押し付けられ舌を噛みそうになった。
「お前は、自分が何者なのかを理解してアリスお嬢様に近づいているのか」
「っ……」
「お嬢様がお前に関わっていることが私以外の城の者に知られれば、お嬢様は……お嬢様には、急にいなくなったと伝えておく」
付き人はグランに刺した得物を抉るように動かし傷口を広げようとする。しかし、グランの体につけることのできた傷はほんの小さなものでしかなく、いくら動かしてもそれ以上深く刺さることはなかった。付き人は焦りを覚えたようにその動きを激しくさせたがそれも無駄だった。
グランはこのようなやり取りに既視感を憶えながら、尾の辺りに意識を集中させ、その部分から本来の姿の一部である尾びれを出現させた。その尾びれを撓わせ、尾びれの先の方で器用に付き人の首元を捉え、そのまま壁に叩きつけた。身体の解放されたグランはゆっくりとその体を起こし、尾びれの先にいる者を見やる。
「ぐっ……」
付き人は苦しそうに喘いでいた。しかし、その瞳は戦意を喪失しておらず、昔からの仇敵を睨みつけるかのようにその目つきは鋭かった。
幾度も見飽きた光景に、グランの肩にどっと気怠さがのしかかってきた。グランは無意識のうちに尾びれに込める力を強めた。そんなに頑丈に作られていない小屋がミシミシと軋み上げ、その音が大きくなるにつれて付き人は苦しそうに顔を歪ませていく。
やがて付き人が白目を剥きそうになり、小屋が崩れ始めるんじゃないかとグランが予感したとき、再び扉が開かれた。開かれた扉の方ではっと息を飲む声が聞こえたかと思うと、勢いよく扉の閉まる音と同時に叫ぶ声が小屋に響き渡った。
「何してるの!」
グランはその悲痛な叫びに怯んでしまい、尾びれがするすると巻き取られるように縮小していく。解放された付き人が首に手を当てながら必死に酸素を求めて咳き込んだ。アリスは付き人に飛びつき、必死に背中をさすり声を呼びかけていた。アリスがこんな風に取り乱す姿を見るのは初めてで、あまりの健気さと必死さに、グランはすべてが崩れていく音が聞こえた。
「バニラ! バニラ! しっかりして、大丈夫だから!」
苦しそうに喘ぐバニラは体を素直にアリスに預け、苦しそうに喘ぎながらも申し訳なさそうにアリスを見つめた。アリスもくしゃくしゃになった顔で無理やり笑顔を作って、バニラのことを懸命に見つめ返していた。
二人のやり取りがずっと遠くの出来事に感じられた。自分はやはり、人と共存することは無理なのだと悟った。
短い時間だった。それでも、自分には過ぎた時間だったと、グランは感謝と罪悪感を胸に抱きながら二人を置いて小屋を出て行こうとした。
「待って!」
その声が自分に向けられていると理解した途端、反射的に手が止まってしまっていた。力を込めても動きそうにない自身の手を、グランはひどく恨んだ。
「詳しい話を聞かせて。何があったの、グラン」
そのトーンは、決して優しいものではなかった。しかし、それでもグランを見限り失望したという声音にはどうしても聞こえなかった。
決して振り返るつもりなどなかったのに、それでもグランは、アリスの不思議な魔力に魅了されたように、アリスの方を振り返る。そこには、子供の喧嘩に呆れて怒るような、厳しくも優しい母親のように佇むアリスの姿があった。