第5話
文字数 3,940文字
「なにそんなところで不貞腐れてるのよ」
ぼんやり外を眺めるロッティの背中から、セリアが不満げに口を膨らませる。
以前開かれた、シャルロッテという女性が企画した本を読んでみようの会以来、セリアは学び舎でロッティによく話しかけてきた。ロッティが何となく空けていた皆との距離を、セリアは何でもないかのようにひょいっと詰めてきて気さくに話しかけてきたが、周囲の視線が気になってロッティは上手く話すことが出来なかった。しかし、セリアもロッティのことを無理に大勢の輪の中に加えようとはせず、ただロッティに話しかけに来ているという風であったため、ロッティも徐々に周りを気にしなくなり、気を張らずに話せるようになっていった。話していくうちに、セリアは他意も裏もない、嘘を吐くのが苦手そうな純粋な子だということが分かってきた。
ロッティは不貞腐れているつもりなどなかったのだが、セリアの目にはそう映ったらしく、足で床をとんとんと叩いた。いつも履いている物よりもずっと丈夫そうな、膝近くまである茶色のブーツを履いており、リズムよく床を鳴らす音も低い。
「ねえ、雪よ雪! ロッティは初めて見るんじゃないの。なんでそんな落ち着いちゃってるのよ」
「雪は確かに初めて見るけど……こうやって眺めてる方が綺麗じゃないか。外に出たら汚れちゃうよ」
「何退屈なこと言ってんのよ。ほら、こっちおいで!」
「わっ、ちょっと」
セリアは無理矢理ロッティの手を取って外に連れ出した。外に出ると冷え込んだ空気が僅かに露出している肌を突き刺し、白く濃い息がもわっと出る。静かに降り続ける雪は、見慣れた街の景色を問答無用で白く染め上げていた。その雪に彩られた街を背景にはしゃぐ子供たちはより元気そうに映えた。
ロッティは空から降ってくる雪に合わせて手をそっと差し出してみた。掌に舞い落ちた雪粒はすぐに冷たさだけを残し、色を失くしてやがて水へと変わった。
「ほら、やっぱり良いものでしょ」
セリアがどうだと言わんばかりに胸を反って自慢げな顔をしている。ロッティは恥ずかしくなって手を背中に隠したが、セリアは自慢げな表情をやめなかった。
「うん、確かにすごいや……不思議だね」
「でしょ? まあ、私も実際見るのは久しぶりだから楽しいんだけどね」
「雪って五、六年前に降ったのが最後なんだって、お母さんが言ってたよ」
「そんなに前か-。だからか!」
セリアは頬を緩めながら長い黒髪を揺らして他の子供たちと同様にはしゃいだ声を上げた。無邪気に雪をすくい上げては適当に投げて、手の勢いに反してふわりと舞ってすぐに空気に同化したように消えていく雪をじっと眺めていた。セリアは他の子供たちに混じっていこうとはせずに、ひたすら地面に積もった雪をすく上げては舞わせてみせたり、投げたりするのを繰り返していた。
セリアにとってブルーノは一番の友達であるらしい。セリアは決してそのように口にすることはなかったが、学び舎にいる間やその行き帰りの道中で、ずっとブルーノの横に犬のように懐っこくくっついて愉しそうに話している様子からそうであることはほとんど明らかだった。
ブルーノは、エルフという種族の子であるという。ある日親を亡くし、ロッティとは別の孤児院に連れられた後、この街の家族に引き取られ、そしてその隣の家に住んでいたセリアと仲良くなったらしい。セリアはそんなブルーノの経緯を手短にまとめていたが、その短い説明の中に積み重ねられた時間の厚みがぎゅっと凝縮されていると、セリアの話し振りからロッティは感じ取っていた。エルフという種族は、昔は普通の人間と違う外見や特異の特徴を持つために迫害されていたという。今では帝都の呼びかけにより各地でエルフに対する差別撤廃条例が成立しているようであるが、それでも特異な存在を色眼鏡で見る人間は少なくなく、差別意識が完全になくなっているわけではないという。
そんなブルーノにとってセリアがどんな存在であるか、それを想像してみようとすると、ロッティは胸の奥が切なく締め付けられるような感覚に陥った。きっと自分の想像よりも遥かに深い間柄にあるだろうということだけは、ロッティにも容易に想像がついた。
雲の合間から日差しが差し込んできて白銀の世界を照らしつける。途端にセリアのはしゃぐ姿が眩しく感じられ、ロッティは無意識に目を細めた。こんな光景を見ることになるとは、教室の隅で一人ぼっちで先生の話を聞いていたときには考えられなかったことだった。
「……ありがとう、セリア」
「ふぇ、何か言った? それよりほら、これでも喰らえ!」
セリアは雪をまとめてこねるのに夢中になっていたようで、ロッティの声は届いておらず、掌に出来た雪玉をロッティに向けて投げてきた。しかし、その雪玉はロッティまで届くことなく、飛んでいく途中で形が崩れ雪は分散し、そのまま降ってくる雪と同じように静かに地面に落ちた。セリアは不満げな表情で宙を睨んでおり、その様子にロッティは思わず笑った。
学び舎での授業も終わり、歯が震えてがちがちと音を立てるのを何とか我慢しているロッティは、寒い空気が顔面に浴びるのも構わず走って、暖かい部屋が待っている家へと向かった。帰宅すると、もわっと生ぬるい空気が流れ込んでくると同時に、いつものように居間から母親の「おかえり」という声が届いてくる。
急いで自分の部屋に駆け上がり、荷物を放り投げ、一瞬ベッドに飛び込みたい欲に駆られながらもそれを堪え、部屋を飛び出て急いで居間へと向かった。居間では、母親がソファに座って何やら作業をしていた。見覚えのない作業に、ロッティは首を傾げた。
「お母さん、何してるの」
「いま、ロッティのためにマフラーを編んでいるのよ。ちょっとそこで待ってて、すぐに出来るから」
母親はこちらに視線も寄越さず目の前の作業に集中している様子だった。細い棒状の物で青い毛糸をたぐり寄せては引っ張り、を繰り返しているようにしかロッティには見えなかった。帰って来たばかりで寒さを何とかしたかったロッティは、さっさと台所のシンクで手洗いうがいを済ませ、寒い日にロッティが居間でいつも使っているブランケットを探そうと目線をキョロキョロ動かすと、母親がちょうど自分の膝にかけているのに気がついた。未だに身体から寒さが抜けていないロッティは、母親にちょっと待っているように言われたために暖を求めて自分の部屋に戻ることも出来ず、どうすれば良いかと右往左往していると、母親が毛糸を引き締め立ち上がった。母親の手元には、ブランケットには及ばないぐらいの大きさの、青色の横長い布が誕生していた。
「出来た! ロッティ、ちょっとこっち来て」
嬉しそうな母親の言葉に従って、ロッティはソファの近くまで歩み寄った。
「ちょっと動かないでじっとしててね」
母親はその青い布をロッティの首に巻くようにかけた。ロッティは言われた通りじっとしていたが、青い布が巻かれるとちくちくとした感触が首元でして、その辺りを掻きたくなる衝動に駆られた。それでもしばらくじっとしていると、「もう良いわよ。どう?」という母親の声が降ってきた。そう問われて、ロッティは改めて布の感触に意識を集中してみる。
初めはちくちくして痒いという感想しかなかったが、先ほどまで寒空の下、冷えた空気に晒され続けて冷えていた首に徐々に熱が籠っていく感覚がした。ロッティは思わずその布をそっと握った。
「あったかい……」
「そう! それは良かったわ。この間チラシに載ってた読み聞かせの会があったじゃない? その日に編み物の本を買っておいたのよ」
母親が落ちてくる羽根を拾い上げるかのように優しい手つきでロッティの手を取って、ロッティに巻いた布に重ね合わせた。母親の手も首に巻かれた布のように寒さで逃げていきそうになる熱を閉じ込めてくれ、布越しにでも、母親の手の温もりが伝わってきた。
「これはマフラーって言うのよ。新聞の予報によると雪は続きそうだから、これからはこのマフラーを身につけて外に出なさい。いくらか暖かいはずよ」
そう言って、優しく穏やかに微笑む母親の笑みが、ロッティにはとても眩しく感じられた。その笑みは、孤児院にいたときにも見ることのなかったような類のものであった。自分の中のどこかが大きく揺さぶられ、目の奥が熱くなっていくのを感じながら、ロッティはこくこくと頷いた。母親は微笑んだまま頷き返すと、そっとロッティの頭を撫でた。その手は、ロッティにはマフラーと呼ばれた物以上に暖かく感じられた。
その日の夜、ロッティはこれまでで一番寝つきよく眠ることが出来た。ベッドの布団がこれまで以上に身体に馴染み、その柔らかさをしみじみと堪能しながらロッティは眠った。
それから二年と五ヶ月の月日が経ったある日、ロッティは居心地の良い夢から目覚めさせられた。信じた世界は、自分にはまだ触れることすら叶わない別次元の楽園なのだと思い知ることになった。