第5話
文字数 3,716文字
アリスは、ほとんど毎日と言っていいほど小屋にやって来た。そんなに頻繁に来るのは疲れるんじゃないかとグランも初めの頃言っていたのだが、アリスも頑なだった。意外に頑固な性格だと気づいたグランは次第にもう何を言っても意味がないと思い言い聞かせるのを諦めた。
年月を重ねるうちに、アリスはぐんぐんとその見た目を変えていった。背丈は五尺を少しばかり越すようになり、ブラウンの長髪はいっそう艶やかになっていった。あどけなさを残しつつも端正な顔立ちは、小屋にやって来るまでに不埒な輩の手が忍び寄るのではないかと心配になるほどであった。
「私、目指していることがあるの。その目標のためにも、下町に行かないといけないの」
なのでアリスが突然そのようなことを言いだしたのにグランはバニラと一緒になって慌てた。自分と似たようなリアクションを示すものだからグランもバニラも互いを睨み合った。
「もう、そうやって喧嘩ばっかりしている間にもう行っちゃうんだから」
すっかり強かになったアリスはさっさと小屋を出て行ってしまった。取り残されないようにグランもバニラもアリスの後を必死に追った。
下町へ訪れるのは久しぶりのことだった。そのため、下町に訪れた瞬間に感じられる汚らしい雰囲気にグランは思わず身構えた。
グランもバニラも周囲を警戒しながらアリスの後をついていくが、アリスはあちこちに視線を飛ばすだけでどこか特定の建物に向かっていたり止まる気配もないため、未だにアリスの真意が掴めなかった。
いかにも崩壊しそうな家屋を通り過ぎた時だった。突然その物陰から人影が出てきて、アリスに飛び掛かった。グランは瞬時にアリスとその人影の間に割って入った。その人物の顔を見る暇もなくどんとぶつかられるが、グランの体の丈夫さに相手がその場でひっくり返るように倒れた。背後でかすかに悲鳴が上がったと思うとアリスがグランの背中にくっついた。
バニラが瞬時に倒れた相手を組み伏せた。身動きも取れなくなった相手は、しかし、勢いがなくなることなく暴れて叫んだ。
「こんなとこにお嬢ちゃんみたいな金持ちが来るんじゃねえよ! ここの人間を笑いに来たってのかよ!」
男は自嘲しているとも激怒しているとも受け取れるような笑い方をしながら、アリスのことを必死に、忌々しく睨んでいた。
バニラがアリスに目配せをする。グランはこんな男など適当に気絶させてどこかに置いておきたい気分に駆られたが、背中に隠れていたアリスはゆっくりとグランから離れ、驚いたことに、その男の目線に合わせるように腰を下ろした。アリスの行為を窘めようとするバニラをもアリスは制したが、そのやり取りは却って男の癪に障ったようで態度を一層悪くさせた。
アリスは冷静にその男の目を見た。
「私や私のお友達を襲わないと約束してください」
「はあ? そんな約束守るわけねえだろ。俺はお前みたいなお高く留まってるやつをぶちのめしてやりたいだけなんだよ」
「それではお話が出来なくて困っちゃいます」
アリスは男の敵意など関係なさそうに、本当に困ったように苦笑した。それ見た男は、険しい顔つきながらも毒気を抜かれたように言葉を失った。
男が何も言わなくなったのを見て、アリスはバニラに「この方を放してあげて」と頼んだ。納得していない様子のバニラであったが、アリスに訴えられるようにじっと見つめられて、渋々その男を解放した。男は素早く体勢を起こし、アリスと距離を取り身構えた。流石に奇襲に失敗し、三対一のこの状況ではアリスに何も手を出さないとは思うが、それでもグランはアリスに指一本触れさせないように、周囲を警戒しながらいつでも男に飛び掛かれるように身構えていた。
しかし、アリスはそれすらも良しとしなかった。
「バニラもグランも怖い顔はやめて。この方が脅えてしまいます」
アリスの一言に、グランも不本意ながら警戒を解くことにした。
アリスはようやく本題に入れるとでも言いたげに、男に無警戒に近づいた。男は怯んだ。
「貴方は、どうしてこの地域に住んでいるのですか」
「ああん? お嬢ちゃん、やっぱり俺たちをからかいに来たってのかい」
男の声には再び怒気が籠り始めてきたが、アリスはその変化に鈍感なのか、まるで気づいていないように怯まず男の方に歩んでいた。しかし、グランはアリスの肩がわずかに震えているのを見逃さなかった。
「からかいに来たのではありません。私は、今まで目を背けていたことから逃げずに向き合うためにここに来たのです」
「ごちゃごちゃとまだるっこしい言い方しやがって、何が言いたいんだ」
それまで肩を震わせていたアリスは、意を決したように男の手を取った。虚を突かれた男はもごもごと口ごもり戸惑っていた。しかし、その手から何が伝わったのか、男は不満そうな色は残しつつもアリスに乱暴なことをする気配は起こさなかった。
「貴方が仰るように、確かに私は幸いなことに何も不自由ない生活を送っています。しかし、何も知らなかった頃の私は恥ずかしながら、その生活が、その裕福さが、世の当たり前のことだと信じて疑ったことがなかったのです」
男の手を握る力が強くなったのか、男はわずかに顔を顰めた。しかし、それ以上にアリスの顔が激しい痛みを堪えるかのように歪んだ。
「ですが実際の世界は違っていました。世の中には、生活に必要なものを一式揃えられない人が大勢いました。具合の悪くなったときに医療施設を利用することすらままならない人が大勢いました。満足にものを食べられずに飢えていく人が大勢いました。家族を失って生きている人が大勢いました。そして……この世界に生きることすら許されない人がっ、確かにいました」
最後の方は完全に涙声になっており、アリスは溢れ零れる涙を拭くこともせず男に向き合い続けていた。
「私は、そんな世界はおかしいと思います。そんなことになっている人がいる一方で、何もしていない私がこんなに裕福な暮らしをしていていいのかと悩まされてしまいます。誰もが同じようにこの世に生まれてきて、同じようにこの世を生きていくのなら、私も皆も普通に生きられる世界でなければいけないと思います。私は、皆に生きて欲しいんです」
男の顔には何の感情も浮かんではいなかったが、アリスの手を振り払うことなくされるがままにアリスの話を受け止めていた。
アリスが挙げた人の例は、グランがアリスにした記憶の話に出てきた人たちに一致していた。転生を繰り返してまで生き永らえてきた生の中で、確かにそういった人たちをグランは見かけてきた。そういう人たちを見てもグランは決して正義感に目覚めることはなく、ただひたすらに不平等に生きらされている人たちのことを哀れに思い、半ば呆れ、この世界から自分の存在を爪弾いてきた人たちに対して恨みを積み重ねていくだけであった。
そんなグランの愚痴を、アリスは真剣に聴いていたのだ。同じ情報を知って、グランが人を見限っていく一方で、アリスはただひたすら、純粋にその話を受け止めていたのだ。もちろんアリス自身も城内で本を読んだり世の中の情勢について学んでいくうちに知ったこともあるのだろうが、今のアリスの話し振りからグランの話に影響を受けた部分が多いのは間違いなかった。
「私は、きっとそんな世界にします。そして、それが実現するまでの間、私は目に届く範囲の人たちだけでも救っていきたいと思っています。ここに訪れ、たとえ余計なお世話だと揶揄されようとも、戦争や他の理由でこの地域に住むことになった貴方たちの力になりたいのです」
アリスはようやく男の手を放したかと思うと、その場で深く頭を下げた。男は、敵意をすっかり喪失した様子で、目の前の一人の少女に対して情けなくおろおろするだけであった。
グランは、少しだけアリスに苛ついていた。アリスの純粋さに好意的な人ばかりではないことをグランは長い生の中で既に理解しているつもりだった。きっとアリスはこの先その純粋さで深く傷つくことがあるだろう。そんな道にわざわざ進もうとするアリスを、たとえアリスの意思をふいにすることになったとしても引き留めたくてしょうがなかった。そして、そんな自分の心配などもアリスは無視して突き進んでいくであろうことも、これまでの付き合いで良く分かっており、それが余計にグランの心をかき乱した。
自分には、ただアリスを見守ることしか出来ない。そのことを、グランはよく理解していた。