第23話
文字数 3,221文字
シリウスへ帰る馬車では、久し振りに窓の外の光景を眺めることが出来た。ロッティは外の景色が速いスピードで後ろへ流れていくのを眺めながら、ガーネットと共にシリウスへやって来たときのことを思い出していた。その頃と比べて、自分の手はすっかり汚れてしまった。
しばらくすると、赤茶けた煉瓦の街並みが見え始め、ロッティはようやくシリウスへ帰ってきたのに気がついたと同時に、そう思うとどっと肩が重くなった。椅子により深くもたれかかった。
「シリウスに着きました。今回は本当にありがとうございました。依頼分の報酬は後日送らせていただきます」
ブルーメルが背筋を伸ばしてロッティの方を見ていた。馬車の中でブルーメルの方から話しかけたのは初めてだなとロッティはどうでもいいことを考えながら、頷いていた。
やがて仮住まいの家の前に馬車が到着し、ロッティはブルーメルの確認を取ってから扉を開いた。地面に足がつき、機械人形を壊して回った街では感じられなかった錆びた鉄の匂いや何かが焦げた匂いが鼻をくすぐると、ロッティもようやくシリウスに帰ってきたという実感が湧いてきた。
ロッティが馬車の扉を閉めようとしたとき、「ロッティさん」と馬車の中からブルーメルの声に呼び止められた。馬車の中は暗くブルーメルの姿はシルエットでしか捉えられなかったが、それでも何となく今までの堅苦しい雰囲気を解いている気配は伝わってきた。
「今回は……付き合わせてしまって、本当に申し訳ございません。私が言うのもおこがましい話ですが……しっかりとお心を休めてください」
ブルーメルの形をした人影は、暗闇の中で赤く輝く瞳でロッティのことをじっと見つめていた。ブルーメルの誠意が伝わってきて、ロッティは軽く会釈だけして扉を静かに閉めた。そのままロッティの元を去っていく馬車をロッティは呆然と見送った。
鍵を開けて仮住まいの家に帰ると、フルールが玄関まで小走りに駆けつけてくれ出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ロッティ様」
旅立つ前はどこか不安を押し殺していたフルールはすっかり落ち着いたようで、初対面のときには見分けがつかなかった、かすかな微笑を浮かべて手を合わせている。以前まではその表情にどこか安らぐものを感じていたはずだったのに、ロッティは胸がきりきりと悲鳴を上げ始めた。途端にフルールの表情に翳が差す。
「どうかなさいましたか? お身体が悪いようでしたら、ベッドの方を整えてきましょうか」
フルールは慌てたように奥の方へ行こうとするのを、ロッティが「いや、その必要はない、大丈夫だから」と呼び止めた。フルールがそんな風に感情を露わにするだけで、ロッティの胸はますます苦しくなった。
フルールを無理やりに止めて居間へと向かうと、澄ました顔で読書をしているガーネットの姿があった。ロッティが「ただいま」と声を掛けると、ガーネットは読んでいた本を閉じ、テーブルに静かに置きながらその本を哀しそうに見つめた。
「お帰りなさい、ロッティ」
「ああ、ただいま、ガーネット……」
ガーネットは顔も上げずに本をじっと見つめたままそれっきり黙ってしまった。ロッティの後ろからフルールがロッティの背中をくいくいと掴む。鈍い身体を何とか振り返らせると、フルールは不安そうにロッティのことを見上げていた。ロッティはもう一度ガーネットに視線を送る。依然としてガーネットは目を伏せたままで、植物のように静かなまま動く気配はなかった。ロッティは勝手にガーネットも何かに疲れて話す気力もないのだと判断した。
「フルール……俺やっぱり寝てくる。準備とかはしなくていいから」
フルールが逡巡しているのを待たず、ロッティは何かから逃げるようにして自室へと向かって、ベッドに倒れこんだ。たった一週間ぶりだというのに、ベッドの匂いがひどく懐かしく感じられた。この一週間にあった出来事を何もかも忘れたい気分だったロッティは、初めて機械人形を壊した日以上に早く夢の世界へと誘われた。
朝方に帰ってきたロッティは、そのまま日が暮れかける頃まで目を覚ますことはなかった。それを見かねたガーネットがロッティの部屋の開けっ放しになっている扉をこんこんと叩いた。
「ロッティ、少しだけ起きてもらって良い?」
しかし、ロッティは寝返り一つせず死んだようにじっと動かなかった。ガーネットはしばし躊躇った後、ロッティの身体を揺すって、耳元で呼びかけた。
「ロッティ、起きて」
その後も何度か揺すって、ようやくロッティは眠そうに目を開けた。目を開けてすぐ近くにガーネットの顔があったことで、ロッティは飛び起きてベッドの上で後ずさった。
「ど、どうしたんだよガーネット」
「…………貴方を起こそうと思っても中々起きなかったから」
少し拗ねたようにそっぽを向くガーネットに、ロッティの寝惚けた頭は状況を上手く把握できず首を傾げた。
身体を起こそうとすると、思っていた以上の身体の重さにロッティは倒れそうになるが、何とかベッドに手をついてそれを免れる。傍らではガーネットが心配そうに寄り添っていた。ロッティは大丈夫だという風にガーネットに目配せして、何とか立ち上がってのろのろと居間へと向かう。テーブルの上には紅茶が芳醇な香りを放ちながら二つ並んでいた。ロッティは何となくその紅茶の前に座った。すると、紅茶以外にも部屋を満たしている香りがあることに気がついた。
「気がついた? この部屋でも、貴方がくれたカーユの油を試してみたの」
ガーネットが紅茶を口に含みながらロッティの心を読んだようにそう言った。ロッティにとってはその贈り物をしたことなどずっと遠くの出来事のように感じられ、実際どんな効能があったものなのかロッティは思い出せなかった。すると、それすらも見透かしたかのようにガーネットが説明を補足した。
「貴方がくれたカーユの油は、健康の促進とストレス解消の効果がある……顔色の悪い貴方に良いかと思ったの」
ガーネットは少しだけそっと顔を伏せ、ロッティとは目を合わせようとしなかった。そのガーネットの心遣いは、ロッティの鈍化した頭にそっと溶け入った。
「ありがとう、ガーネット」
「……私には、励まし方も気の利く台詞も分からないから……こういうことしか貴方にしてあげられないだけなの」
「……十分励ましになっている」
ガーネットはしばらく黙ったままひたすら紅茶を口に運んでいた。
「それより、何か話があるんじゃないのか?」
「別に。疲れてそうだったから少し悪いと思ったけれど、あのまま一日中眠るのは却って身体に悪いかと思って一度起こしただけ」
まだ麻痺した感覚の抜けない鈍った思考で、ロッティはガーネットが自分を起こした理由について尋ねたが、ガーネットはなんでもないことのように答えて、未だ湯気が立ち上る紅茶をこくこくと飲んだ。話を聞いた感じでは、身体を気遣ってのことだったが特に用はないようであった。ならばと、ロッティはその後は特にガーネットに何を訊くでもなく、静かに紅茶を飲みながら静かな空間に身を預けることにした。ガーネットとこうして静かに一緒に過ごす時間は、とても懐かしく、居心地の良い時間だとロッティは改めて認識した。ロッティの胸の内に巣食った血染めの気持ち悪さが徐々に薄れていった。