第5話
文字数 3,477文字
アノンが抑揚のない声でロッティの方にわずかに振り向く。その声に驚きは含まれていなかった。
「何となく、だけどな。初めは気がつかなかった。でも、シリウスで会ったことを思い出したら、同じ時期、シリウスでシャルロッテが会ってた人物があんただって急に気がついたんだ」
「……そんなことも、あったかな」
アノンもとい、ノアは、とぼけるのではなく本当にそんなことがあったことを思い出せないような声音で首を傾げた。転生を繰り返し記憶を積み重ねてきた幻獣族にとっては、そんな些細な出来事など覚えていないのだろう。
「それより、俺の質問、というか話に答えろ。あんたでも、そんな風に迷うんだなって。それとも、それも演技だったのか」
「…………いや、演技じゃないだろうな」
ノアは、自分のことなのにまるで他人事のように言ったが、その超然とした瞳に、根深い悲しみと憎悪が遠き日の想い出に茨のように巻き付いていくような、複雑な色が宿っていった。
「エルマがいなかったら、とっくに俺はこんなこと止めていた。レオンも、イグナーツも、グランも、誰も生きていなかったら、俺も死を選んでいただろう」
ノアの瞳に映る街の景色が、悲しみの色に呑まれていた。ノアには一体この風景がどんなふうに映っているのだろうと、ロッティはノアの見ている世界が気になった。
「だが、皆まだ生きている。苦しみながらも、傷つけられながらも、まだこの世界のどこかで生きたいと願っている。気持ちを同じくした仲間のためにも、俺はやらなければならないんだ」
ノアの淀みない言葉は、却って迷う自分に言い聞かせている響きがあるようにしかロッティには思えなかった。しかし、ロッティはその違和感を上手く表現することが出来ず、胸の内をもやもやさせながらノアの話を黙って聞いていた。
「……ロッティ、お前たちはこっちには来ないのか」
「その勧誘ならしつこく受けたよ。リュウセイ鳥のときだって、あれも今思えば、未踏の大陸出身の俺たちに未来を導いてもらいたいと思っている普通の人間だったんだな」
「……いや、そいつらのことは俺はあまり考えていない」
ロッティはノアの言葉を不思議に感じ、ノアの顔を振り向く。ノアは真剣な表情で高く上がっている陽を眩しそうに見上げていた。
「俺たちに生きて欲しいと願ってはいるが……そのほとんどが、かつての威光に囚われた人たちだ。決して、俺たち自身を見てくれてはいないのさ……カインの奴でさえも、な。本当に俺たちの気持ちを理解できるのは、同じ未踏の大陸の者たちだけだ」
「そうか……でも、それでも俺はそっち側にも着かない」
ロッティのはっきりとした拒絶に、ノアは少しだけ驚いたような顔でロッティの顔を見つめた。その眼差しはロッティの口から続きの言葉を切に待っていた。その態度に、ロッティは切なく胸を締め付けられながらも答えた。
「ノアたちの気持ちが分からないわけじゃない。何より、俺だって、誰かと気兼ねなく一緒に生きられる世界で生きたいと思っている。でも……俺には、もっと別の方法があると思うんだ」
「……そうあって欲しいと願っているだけだ。俺たちがどれだけ長い時間悩んできたと思っている」
「分かってる。でも……俺がその答えを見つけるまでは、俺自身が納得できるまでは、ノアたちにこの世界を壊させるわけにはいかない。俺は俺のために、ノアたちを止める」
はっきりとした拒絶だったにもかかわらず、ノアはロッティの言葉を受け入れるように、優しい顔つきになっていった。
「お前は、あくまでも俺たちを敵扱いしないんだな。人類に、この世界に仇なそうとしているってのに」
「そんなの当たり前だ。だって……俺も、ノアたちも、ただ生きたいだけなんだからな」
ロッティの話をどういう想いで受け止めたのか、ノアはしばらく街の景色を眺めるだけだった。そして、短く「ふっ」と笑うと、急に立ち上がりロッティを置いて時計台を去った。ロッティはその場から動けず、去っていくノアの背中を静かに見送っていた。ロッティはノアが去った後も街の風景をまだぼんやり眺めていたが、やがて足元からぼーんと午後三時を示す時計台の鐘の音が鳴り、アリスが来る時間が差し迫っていることに気がつき、こっそりとロッティもその場を後にした。
買い物袋を片手に急いで小屋に戻ると、膨れっ面をしたアリスの姿があった。アリスはロッティの三歳年下で今年で十八歳になるらしいのだが、とてもガーネットと旅を始めたときの自分と同い年とは思えないほど、幼く、純粋だった。
「おそーいロッティ。どこに行ってたの?」
「少し友達と……」
「あらそうなだったの。それはごめんなさい」
アリスが律義に頭を下げるが、横で偉そうに座っているグランが、はじきを景気よく天井に向けて飛ばしながらアリスの頭を上げさせた。
「よせよせアリス、こいつに友達なんているわけねえだろ」
「何てこと言うのよグラン!」
下品に笑うグランの頭をアリスが叩いた。にやにやと笑みを絶やさないグランはアリスに向き合ったと思うとアリスの頬をぎゅっと軽く引っ張った。怒りの収まらない様子で、涙目になりながらアリスもグランの頬をぎゅっと掴んだ。互いに我慢比べのように引っ張り合っていたが、やがてどちらも同じタイミングで手を離し、同じように頬を押さえていたが、そんな相手を見てアリスはムッとした顔をおさめ、グランも再びニヤついた。ノアの険しい顔から語られた話など知らないかのように、その二人のやり取りは遠慮も気負いも何もない、自然で愛に満ち溢れた奇跡のようなものだった。
「というよりロッティ、黙って見てないで止めてよ!」
アリスは思い出したように急にロッティの方に詰め寄り、手を差し出してきた。ロッティが買い物袋をその小さな手の平に素直に乗せると、「よろしい」と気品あふれる口調でアリスが答え、すっかりご機嫌になったみたいで、弾むような足取りでバニラと一緒に台所へと向かって行った。ロッティもその背中を見送りながら、椅子に腰を落ち着けさせた。
「ちなみにガーネットは自分の部屋で、わざわざ耳栓までして本読んでるよ」
「グランたち、どんだけうるさくしてるんだよ」
「俺のせいじゃねーって、アリスのせいだってアリスの」
うるさい云々はロッティは冗談のつもりだったのだが、どうやら騒がしかったのは本当らしく、グランがニヤニヤしながら顎でくいっとアリスの方を示した。アリスもムッと頬を膨らませてグランを一睨みしてきた。グランはすぐにそっぽを向いて素知らぬ顔でアリスの視線を無視していた。アリスは納得がいかないような様子だったが、そのまま視線を手元に戻し料理に集中し始めた。買い出しに指示された物から推理するに、アリスたちは今日はライ麦パンを作っている最中だろう。
「んで、ノアに会ってきたのか」
グランは再びはじきを天井に向けて投げながら、微妙に声のトーンを落としてロッティに尋ねてきた。台所にいるアリスに聞こえるかどうか微妙な声大きさだったが、ロッティは別に聞かれても構わないだろうと判断して普段通りに話した。
「ああ、少し話そうって言われてな。尾けてきてたのかは知らないが」
「まあそれはどっちでも良い。それで、何を話してきたんだ」
ロッティはちらりとアリスの様子を窺うが、時折覗かせる横顔は顔色一つ変わらず、バニラと一緒になって真剣に作業に勤しむ姿だった。迷った末に、ロッティは声を潜めて話した。
「こちら側……リベルハイトだったか、に来ないかって言われたよ。あと、疲れたって」
「そうか……あいつも大変だな……」
グランはどこか他人事のようでありながら感慨深げに深く息を吐き、椅子に踏ん反り返るようになった。ぼんやりと天井を見上げ、足を何度も組み直していた。それっきりグランは何も言わなかった。同じ幻獣族として何か思うところがあったのか、感傷に浸っているような雰囲気のグランにロッティもそれ以降何も話しかけないことにした。
やがていつものようにアリスが「でーきた!」と嬉しそうにバスケットにパンを詰めていき、バニラが小洒落た小箪笥にカップを入れていき、二本分の水筒と一緒に手に持った。
「それじゃ、行こ、ロッティ!」
アリスが笑顔でロッティの袖を引っ張る。アリスの持つバスケットの中にはパンが山のように詰められており、ここまで多くのパンを作った後でよくこんな力が出るなと感心するほどアリスはエネルギッシュだった。ロッティは引きずられないようにアリスについて行った。