第6話
文字数 3,514文字
「はい、ロッティも」
アリスが少年の隣に座ったロッティにも紅茶を差し出した。ロッティもありがたく受け取り、それを啜った。ガーネットとの旅のとき、どこかの宿に泊まるとガーネットは必ず紅茶を振る舞ってくれた。ガーネットの淹れてくれた紅茶は、どこまでも広がるような奥深さのある香りとしっとりと舌に染みこむ優しい味わいがあった。そんなガーネットの紅茶にすっかり慣れていたロッティの舌は、アリスの紅茶の味に新鮮さを感じた。その味は、ガーネットに教わったことがあるのだろうか、どこか似ているような雰囲気があるものの、ガーネットの紅茶の香りは自然の豊かさを感じさせるようなものだったのに対し、アリスの紅茶の香りは、どこまでも優しさと愛を感じさせるような柔らかいものだった。
ふと、隣に座る少年の姿が視界に入る。ロッティは、静かにその少年の頭を撫でてみた。少年は拒否する気力もないのか、それとも素直に受け入れてくれているのか、何の反応も示さずに撫でられ続けていた。
「俺も昔、親のように思っていた人を亡くした」
ロッティは静かに語り始めた。ノアと会った影響か、それとも久し振りに口にしたアリスの紅茶の影響か、口から自然と零れ出た。当然のように反応はないが、少年が聞いてくれていることを願いながら、ロッティは話し続けた。
「一人は、自分をこの世界に導いて、生きる意志を与えてくれた。もう二人は、俺が大きくなるまでずっと見守ってくれていた。血は繋がってなかったけど……その三人がいなかったら、今頃俺はここにはいない。でも、その三人は、もうどこにもいない」
ロッティは当時『ルミエール』にいて涙も流せず放心していた自分を傍観者のようにじっと見つめた。その自分の様子をつぶさに観察し、その心境を探っていた。言葉をいくら紡いでも伝えられそうにない想いを、少年の頭に乗せた手に込め撫で続けた。
「俺は泣けなかった。子供心に、まるで自分と関わったせいで死なせてしまったような罪悪感で、涙を流すことすら出来なかった。そして泣けないでいる自分はひどい、最低な奴だと思った。今でもその痛みと悲しみは消えないで残っている。でも……」
ロッティは少年の横顔を覗く。相変わらずぼんやりと床を見つめているだけだったが、少年に渡された紅茶の中身は少しだけ減っていた。
「良いんだ、残っていたって。その痛みも悲しみも、その人が大切だったから感じるものだということに変わりはないんだ。君がどんな風に感じているかを俺は分かってやれていないかもしれないけど……君がもし辛さや寂しさを感じて動けないでいるなら、その反応は、何も間違っていない。正しい反応や行動なんてない、自分の感じたことが、自分にとっての真実だし、それだけが、唯一その人を大切に想っていた証拠になるんだ。だから……もう、自分を責めなくて良いんだ」
ロッティは話しながら、もっと上手い言葉で言えたらなと少し悔やまれるような思いをしながら、少年の頭から手を離し、ぼんやり宙を見つめ紅茶に口をつけた。紅茶は小屋から持ち出してから時間が経っていることもあり、すっかり冷めきっており、せっかくの香りもあんまり感じられなくなった。ロッティは多少自棄になって、一気に紅茶を飲み干した。
ぽたりと、雫が床に落ちる音が確かに聞こえた。ロッティは一瞬、飲み干そうとした際に紅茶を零したかと思ったが、自分の真下には特に染みは出来ていなかった。そして再び雫がぽたりと落ちる音がして、その音の方を振り向いた。
少年が赤い夕陽に照らされながら、人形のような顔のまま静かに瞳から涙を流していた。控えめに開かれた口から「お母、さん……」と呟かれた。少年は、瞳から溢れ出る雫を拭おうともせず、ぽたぽたと零し続け、アリスがそっとハンカチを目元に当てていた。
「ロッティって、ちょっと変わったよね」
その帰り道、アリスは目を赤くさせながらそっと囁いてきた。背伸びをしたアリスからほんのりとだが、嗅いだこともないような甘い香りが香ってきた。その香りが、幼く見えるアリスが十八歳であることを思い出させた。
「……俺はまだそこまで変われていないと思うが」
「変わったよ!」
アリスはロッティの前に出て、両手を広げてオーバーなリアクションを示した。
「だって、ロッティがあんな風に自分から見知らぬ子をどうにかしようって思うのなんて……初めて見たよ」
「それは……確かに、そうかも」
ロッティが渋々頷くと、アリスは勝ち誇ったような顔で「ほらあ!」と叫び、鼻息を荒くさせた。しかし、強気な表情も続かず、アリスは今にも泣きだしそうになり、ロッティは慌てた。バニラが颯爽とアリスに駆け寄りハンカチを差し出したが、アリスはそれを受け取らずに涙を何とか引っ込めさせていた。
「もう、急にあんな悲しい話しないでよね。心の準備が出来てないよーもうー心臓に悪いんだから」
それから小屋に帰るまで、アリスはずっとロッティに対して恨みつらみを述べ続けていた。
小屋に帰ると真っ先にグランがアリスの異変に気がつき、心配そうに素早くアリスに駆け寄る。アリスは何でもないよと慌てたように否定するが、グランの心配はしばらく続き、やがて何かに気がついたのか、ロッティをちらちらと睨みつけてくるようになった。ロッティはなるべくグランと目線を合わせないようにした。
やがてアリスが帰り、小屋に再びグランとロッティ、ガーネットだけになると、グランがおもむろにロッティに尋ねてきた。
「お前、あまり下町の人間には深追いするな」
それが、ロッティが一方的にシンパシーを感じている例の少年のことを指しているのは、ロッティにもすぐに理解できた。しかし、その言葉の意図が分からず、真意を推し量ろうとロッティはグランの顔をじっと見る。批難めいた口調に反して、グランの顔はどこか不安を抱えた落ち着きのないものだった。
「前にも言ってたな、深追いするなって……別に俺はそうしているつもりはない」
「どうだかな。まあ、俺はとりあえず忠告しといたからな」
グランは肩を竦めながら自分の部屋に戻っていった。呆れたような声音だったが、先程のグランの心配するような顔がどうしても引っかかっていた。ロッティは閉じられたグランの部屋の扉をじっと見つめていた。ぼんやりと考えていると、先日のガーネットの言葉を思い出していた。
「どうして力になりたいと思った、か……」
未だにロッティはその答えを自分の中に見出せていなかった。しかし、その答えは、自分にとって大事なものであることをロッティは何となく感じていた。そろそろと自分の部屋に戻り、窓から星を眺めた。何歳になっても、星の輝きは変わらない。それらを眺めているうちに、ふとこれまでの星を見上げた夜のことを思い出しそうになる。何となく早く寝たい気分だったロッティは、寝返りを打って窓に背を向けながら目を閉じた。
それからも、ロッティはアリスとバニラと一緒に下町へと赴いていた。ほとんど似たような日々だったが小さな変化も確かにあった。それは、少年が少しずつ、話してくれるようになったことだった。それからというもの、ロッティは基本的に少年が話し出してくれるのを待つことにしていた。
「お母さんは、よくリンゴの料理を作ってくれた」
少年の話のほとんどが、自分を世話してくれたという母親との思い出話であり、自分自身に関する話題はほとんどなかったが、それでも少年とその母親との関係性や少年がどういう子だったのかがロッティには次第に分かってきた。少年は寡黙で、必要以上にアリスたちに心を開くことはなかったが、アリスが握手して手をぎゅっと握ると、少年も無表情ながらそっと手を握り返してくるのだという。ロッティが頭を撫でると、眠そうにうとうとと頭を揺らすようになった。ときにそのまま少年が眠ることがあり、ロッティが少年をベッドに運んでやると、幸せそうな声で、しかし顔を強張らせ、目尻から一筋の涙を流しながら「お母さん」とぼんやり口にした。ロッティがもう一度頭を撫でてやると、強張った顔が緩んでいった。そうした変化を発見する度に、グランの言葉が自分の行いを咎めるように頭の中で主張してきて、ロッティは撫でる手を止める。本当にこれで良いのかと、穏やかに眠る少年の寝顔を見つめながら考えるが、それでもロッティは少年の感じていた気持ちを想像したときに走る胸の痛みを信じることにした。