プロローグ
文字数 2,779文字
どうしても自分には分からなかった。自分の居場所なんて無かった。心に浮かぶ感情を素直に表し、その気持ちを共有し合えている周りの様子を見ては羨ましくてしょうがなかった。そんな皆と違う考えを持っている自分はどうすれば良いのか分からず、周りに合わせて頷くしか出来なかった。自分はどうして皆と同じように生きられないのか、どうして皆と一緒にいるはずなのに自分が苦しく感じてしまうのか、分からなかった。皆と同じように生きられたら良かったのに。生きる場所も、帰る場所も無い。自分は独りで、皆とは違う、皆のようにはなれないのだと意識しながら生きていくことがこんなにも辛いことなのだと、身をもって痛感していた。
三月二十二日
『ルミエール』を勝手に抜け出してこれからどうやって生きていこうかと考えながら歩いていたら、不愛想で変な女性に声をかけられた。見た目は俺とあまり変わらず二十歳になったかどうかぐらいの癖して、百年以上は生きているとほざいている。いきなり俺に話しかけてきて旅に誘ってきたことと言い、かなり頭がおかしいに違いない。
彼女も孤独だった。雰囲気が、いかにも人との関わりをずっと避けてきた人のそれだった。慣れ合いに疲れている感じだった。だから少し頭がおかしいのか。でも、もし本当に百年を生きてきて、その間ずっと独りだったのなら……俺には耐えられそうにもない。
彼女は俺と同じなのだろうか。自分の居場所を見つけられずにこの世界を、百年も彷徨い続けてきたのだろうか。そう思うと、少しだけ同情する。もしそうだったとしたのなら
「七月七日の言い伝え、知ってる?」
樹にもたれかかっていたロッティは、日記を書く手を止め、声の聞こえてきた方を見上げた。丘の上で佇む女性、ガーネットは、なびく髪を押さえながら地平線の向こう側へと沈んでいく夕陽を眺めていた。自分から話しかけてきておいて、こちらに全く興味が無いような態度は初めて会ったときから変わらなかった。風に吹かれるその姿があまりに無防備で、ミモレ丈のスカートの奥が見えそうになる。
「聞いたことぐらいは、ある」
ロッティは努めて意識しないようにガーネットの方を見上げながら答える。角度の問題で顔色は窺えないが、出会ったときから変わらぬ無表情であろうとロッティは予想した。ロッティが返事を待っていると、ガーネットはするすると丘を降りて、ロッティの隣に並んだ。ガーネットはやはり無表情で、ロッティの方を見るのでは無く、ひたすら地平線の向こう側を見つめていた。あどけない横顔はどう見てもロッティと歳の変わらない少女のそれに見え、とても百歳を超えているなどとは感じさせない。じっと目の前を見つめるガーネットにつられて、ロッティもその方向に目を向ける。
目の前に広がる草原は、何一つ遮る物がなく果てしなく広大である。帝都アルフリーデンから近い場所ではあったが、すでに帝都の賑やかな喧噪は聞こえてこず、ひたすらに寂しい草原が広がっていた。辺り一面の、風に吹かれ無抵抗になびく草が、ロッティにはやけに不自由に見えた。
「確か、ある場所でその日に流れ星が見られたら、願いが一つ叶うって噂のやつだろ」
隣に来たにもかかわらず遠くを眺めたまま話が一向に進みそうにないと感じたロッティは、しびれを切らしてガーネットに言い伝えについて確認した。いまいちやりにくさを感じつつも、ロッティは辛抱してガーネットの言葉を静かに待った。
「そう。まずは、そこを目指してみましょう」
「分かった。けど、俺はその場所知らないぞ。お前は分かるのか」
「ええ……昨夜夢に見たから分かる」
夢に見た、そう言ってガーネットは俯いてしまった。意味深な発言といい、ガーネットの俯く様子といい、ロッティはそれらの意味が気になったが、それらを問い質すための上手い言葉が思いつかなかった。どんな言葉を選んでどのように訊いても、ガーネットをひどく傷つけてしまうような予感がした。
「じゃあ、そこを目指すか。俺は……どこでも良いし」
どこでも変わらない、そんな言葉が喉まで出かかるが、ロッティはその言葉をぐっと飲み込んで誤魔化した。それでも十分失礼だったかと自分の迂闊さを反省していると、ガーネットはロッティの方を振り向き、ロッティの暗い思惑など全く気にしない様子で微笑んだ。それは、初めて見せる微笑みだった。
「ありがとう」
ガーネットの真っ黒な瞳は案外、混じりけの無い純粋な瞳をしていた。しかしその綺麗な瞳にたじろぐ暇もなくガーネットはすぐに視線を逸らした。ロッティは少しだけムッとした。
「……何で礼を言うんだよ、おかしいだろ」
「私の言葉を、信じてくれたからだよ」
つっけんどんな言い方になってしまったロッティの言葉に、それでもガーネットは何でもないことのように淡々と答えた。その態度にロッティは今度こそたじろいだ。
「信じるも何も……」
「信じていなかったら……いや、何でもない。それじゃあ、早速出発しよう」
目を右往左往させ、迷うように言い淀みながら、ガーネットは再びロッティに顔を向けたが、そこにはすでに微笑んだ面影は消えており、無表情に戻っていた。それからロッティの返事も待たずに、確かめるように背中に背負う荷物をぐっと握るとさっさと歩き出してしまった。ロッティは置いて行かれないように荷物を手早くまとめてガーネットを追いかけた。そして、ガーネットの背中を見つめながらガーネットの言葉について考えていた。
彼女もまた、何かしら言葉を飲み込んだのだろう。ロッティの瞳に映る、平原を背景に歩く彼女の細い後ろ姿はとても頼りなく、寂しく映った。その背中はとても百年を生きてきたとは思えないほどに小さかった。ガーネットが飲み込んだ言葉は何だったのか、何故ロッティにはその言葉を伝えなかったのか、どうして——ロッティをつれて旅をしようと思ったのか。
出逢って間もないガーネットのことなど分からないことだらけだった。その上、ガーネットもロッティに意図が伝わるかどうかは気にしていない様子であった。それでも、ロッティはそのことを不満に思うことはなかった。簡単に信頼されたくなかった。容易に信頼を置く人間ほど容易に裏切られたと感じるものなのだと、ロッティは信じていた。
「ありがとう」
ロッティのその呟きは、夕闇の風に紛れてガーネットの耳に届いたかは分からなかった。ガーネットは振り返らず、淡々と前を進んでいく。
距離を縮めて並んで歩けるようになるには、まだ時間がかかりそうだった。それでもロッティは、これまでの短い人生を振り返り、それまでで一番強い意思を以て、ガーネットに着いて行くことを決意した。夕陽が次第に落ちていくのを眺めながら歩いているうちに、ロッティは日記がまだ書きかけであることを思い出した。