第2話
文字数 3,453文字
「行ったぞ、あのハルトとかいうやつ」
グランがつまらなそうな声で部屋の奥に呼びかける。その扉をロッティはそっと開けて出てきた。
「ったく、会ってやれば良いじゃねえかよ。何で会わねえんだよ、訳分かんねえな」
グランがロッティを一瞥すると、呆れたように肩をすくめた。
「ちょうど最後の地下通路を作り終えて帰ってきたところなんだ。疲れてちょっと話す元気がなかった……ありがとう、グラン」
「ほーん……地下通路って言うと、アイツらがやろうとしていることはやっぱりお前たちも分かってるってことなんだな」
「まあな……」
グランが見定めるようにロッティの顔をじろじろと見つめたが、やがてどうでも良くなったのか、ふいと視線を逸らしてテーブルの席に着いた。グランは意外にころころ変わる顔を無表情にさせて、テーブルのカップを胡乱な目つきで見つめながらくるくる回したりして弄び始めた。ロッティも踵を返して自分の部屋に戻ろうとすると、バン、と大きな音を立てて扉が開かれた。
「グラン、おはよう! あ、ロッティも来てたんだ! 旅お疲れ様。次はいつ旅立つの?」
あっという間にアリスはロッティに詰め寄ってきて、ぐいぐいとロッティの袖を引っ張った。ロッティが気怠い頭を動かして振り向くと、朗らかに、嬉しそうに笑うアリスの笑顔があった。その幼い笑顔に反して、大人びた綺麗な髪飾りや、胸元に飾られた青白いブローチがきらりと光った。末女ながらも次期皇女候補であるというアリスは、旅からこの仮住まいの家に帰ってくる度に歳相応の朗らかな笑顔を見せながらも、身なりは一層煌びやかになっていき、立ち振る舞いに現れる優雅さも磨かれていた。それを見るとアリスもこの世界で一番裕福な城の人間であることを思い出させられるのだが、肝心の言葉遣いは、ロッティたちに合わせてくれているのか、それともその方が楽なのか、城の人間と話していることを忘れるほど砕けた、一人の少女らしい話し方だった。
「おはよう、アリス……旅は、これからしばらくないけど、少し眠らせてもらうよ……」
「まあ!」
アリスがぱあっと笑顔を輝かせた。ロッティは早速部屋に向かおうとしたのだが、袖を強く引っ張られる感覚にもう一度振り向くと、アリスが笑顔を輝かせたまま裾を握ったままであった。どうすれば離してくれるかと考えて、ふとグランがテーブルの上で退屈そうに欠伸を掻いているのが見えた。
「そういや、グランが早くアリスの紅茶を飲みたがってたぞ」
「んなっ!」
「まあ!」
グランが呻くのと、アリスがグランの方を振り向くのはほぼ同時だった。それに伴い、アリスがロッティの裾から手を離し、ロッティはこれから眠ることを告げてようやく部屋へと戻ることが出来た。閉じた扉の向こうでアリスとグランの楽しそうな会話が聞こえてきた。
「ガーネットの奴、買い出し大丈夫だったかな」
ロッティはガーネットの買い出しを案じながら、床に散らばるように置かれている箱に足をぶつけないように慎重に渡り歩きながら、ベッドに到着し、すぐ横になった。世界を巡り各地の宿でお世話になったベッドと比較しても上質な肌触りで身体を優しく受け止めてくれる感触に急速に癒されていった。
ハルトたちがブラウの本、もといアルディナ・ゲルスターという、初めてこの大陸に訪れたミスティカ族であり、予知夢の能力がひと際強かったミスティカ族の日記を読んだ日から、三年半が経っていた。その間、ロッティの旅はそれまでとは傾向が大きく異なり、地下通路づくりというおよそひどく退屈で、大掛かりで、単調で疲れる作業を繰り返すことが多かったが、それも今日ようやく終わった。こうしてベッドで横になり、その作業から解放されたことを噛みしめていると、それまでの疲れがどっと肩に圧し掛かって来たように重くなり、ロッティに強い睡魔が襲い掛かった。
ロッティたちに割り当てられた部屋は、グランたちのほとんど使っていない部屋だったが、グラン一人のために用意された家に何故ロッティとガーネットが居候するだけの部屋があるのかは、いまいちよく分からなかった。大方、遊ぶ部屋だったり何か特別なことをするための部屋だったり、何かしらの部屋に今後改造していくつもりだったのだろうが、ロッティが使っている部屋は初めはアリスが買った物と思われる料理本や古びたぬいぐるみが散らかっているだけだった。居候するためにわざわざロッティはいくつか箱を用意してそれらをしまっていくと、アリスにも申し訳なさそうな笑顔をされながら感謝された。
そうした経緯のある部屋のベッドで、ロッティはそれらを懐かしく思いながら、扉の向こうで繰り出される会話を子守唄のように感じながらあっという間に眠りに就いた。
「ロッティ……起きて、ロッティ」
自分を呼ぶ声と身体を揺すられその刺激に目を覚ますと、ガーネットが間近の距離でロッティの顔を覗き込んでいた。ロッティは慌てふためきながら飛び退き起きた。
「お疲れ様、ロッティ」
「……心臓に悪いからやめてくれ」
「だって中々起きなかったし」
「ああもう、俺が悪かったよ」
ロッティは体勢を整え、ベッドから下りる。ガーネットもベッドから離れ、ロッティをじっと見つめてくる。三年前までは確かに腰のあたりまで伸びていた長髪もすっかり短く切り揃えており、ガーネットは肩までにしかかからないほどになったその髪を弄ぶ。部屋の奥から仄かに菓子の甘い匂いが香ってきた。
「それで、何かあったのか?」
「うん。グランとアリスがロッティに話があるって言ってる」
「……分かった」
それだけ言葉を交わすと、ガーネットはロッティと一緒に部屋を出た。扉を開けるとリンゴの甘い香りと焼き菓子特有の香ばしくて芳醇な匂いが鼻をくすぐった。
「ロッティ、おはよ!」
「ようロッティ、随分疲れてたみたいだな」
アリスはロッティの方をちらりと見るが、すぐに視線を戻し、焼き窯から手のひらサイズのこんがり焼き目のついたパイを取り出してグランに手渡し、グランはアリスの従者であるバニラの持つバスケットに次々に入れていた。グランに言わせれば、昔のアリスのパイは最悪に不味かったらしいのだが、今はそんなことを微塵も思わせないほど香ばしい匂いが漂わせており、素直に食欲をくすぐられた。ロッティはガーネットと顔を見合わせて、壁にもたれかかりながらその作業が終わるのを待つことにした。途中、グランがパイを一つつまみ食いしていたが、アリスはそれにすぐに気がつき、呆れたように睨みながらも「グランがつまみ食いしても良いように多めに作ってあるから大丈夫だけどさ」と憤慨してから作業を再開した。
まもなくアリスがパイを取り出す手を止め、焼き窯の中をそっと覗き込むと、ふたを閉め、バニラにバスケットを一度テーブルの上に置くように指示してロッティの方を振り向いた。ようやく本題に移るのだと認識して、ロッティは壁からそっと離れた。
「私はね、別に強制するつもりじゃないの。でも、グランがどーーーしてもって言うから、頼むんだけど……」
アリスは壮大な前振りをしてから、手をもじもじさせていると、急に手を合わせて頭を下げてきた。まるで神頼みでもするような大袈裟な素振りに、ロッティも困惑した。
「お願い、します! グランの代わりに、ロッティ、私のお菓子配りについて来てください!」
アリスの懇願は、概ね予想通りだった。アリスが顔を伏せている間にロッティはもう一度ガーネットと顔を見合わせる。ガーネットも相好を崩すことなく、予想通りだとでも言いたげに頷いた。そのガーネットの反応を確認して、ロッティはアリスに視線を戻す。
「もちろん、構わない。一緒に行こう」
「いいの、ロッティ? わあ、ありがとう、ロッティ!」
嬉しそうにはしゃぐアリスの後ろで、グランが生真面目な顔でロッティのことを見つめていた。アリスは嬉々としてテーブルの上のリンゴのパイが詰まったバスケットを腕に掲げ、扉を開け出て行った。
「お前なら、もっと器用に守ってやれるだろ? ロッティ」
グランはいつもと変わらぬへらへらとした表情を浮かべているが、その呟きはどこか諦めた色を帯びていて、悲しげだった。ロッティはグランの意志を受け取り、頷き返してアリスの後を追いかけた。
ガーネットがかつて言っていた、運命の日が近づいていた。その運命の鍵を握る少女アリスを見守ることが、三年半にも及ぶ長い旅における、ロッティの最後のやるべきことだった。