第9話
文字数 3,092文字
「皆さん……待って、ください……」
背中がもぞもぞと動く気配があったかと思うと、耳元で凛とした、懐かしい声が聞こえてきた。横目で見ると、セリアが虚ろげな瞳ではあるが、しっかりと前方を見つめていた。背中にいるセリアがロッティの背から降りたがるように動き、ロッティはそっとセリアを降ろした。セリアは覚束ない足取りで、皆の方へ寄っていく。
「この人は、死にそうになっている私を……助けてくれました……今日だけじゃありません。この人は……これまでにも、何人もの人を、助けるために力を尽くしてくれました……騎士の私が、保証します。この人は、指名手配されるような、人間ではありません。私たちと何も変わらない……同じ、人間です……」
セリアは苦しそうに息も絶え絶えで、覚束ない滑舌ながらも、はっきりとそう話すと、足も辛そうに震わせながらも、先ほどのロッティと同じように深々と頭を下げた。ロッティもそれに合わせてもう一度頭を下げた。
セリアの想いが届いたのか、セリアが騎士だったことが功を奏したのか、皆の雰囲気が徐々に変わっていくのが熱風に乗って伝わってきた。その人たちは、ゆっくりとロッティたちに近づいた。ロッティは顔を上げ皆の顔をもう一度見渡した。完全に不安を払拭できたわけではないようで、怯えの混じった瞳でロッティのことをじっと見つめていた。それでも、その人たちはロッティから離れようとせず、歩み寄ってきてくれた。自分と、そしてアリスがあると信じて願った世界への一歩がまさに今踏み出されたことを、ロッティは確かに感じた。
「ありがとうございます。それでは、こっちについて来てください」
ロッティは皆が着いて来てくれると信じ、ふらふらのセリアを肩に担いで『ルミエール』の借家へと向かった。背後から確かに足音が聞こえてきて、ロッティは達成感に包まれ高揚した。
「あの日から……ずっと、こうしたかった……」
耳元でセリアがうわ言のようにそっと呟いた。遠くを懐かしむようで、誰かに謝っているような声は、何故だかロッティをほっとさせた。
「あの街で、ロッティが責められたときに……ずっと、言いたかった……ロッティはそんな人間じゃないって……でも、私の言葉は、誰にも届かなかった……ごめんね、ロッティ……友達だったのに、庇えなくて、ごめんね……」
セリアの頬に、つーっと涙が流れた。その涙は溢れんばかりに流れ続け、セリアの頬から落ちるとロッティの服を濡らした。
「ごめんね、ロッティ……私、騎士になって、でもお婆様のあの話を聞いて……ロッティが、違う種族だって知って、私、怖くなった……騎士になってからの今までの日々が、間違っていたんじゃないかって……でも、今ようやく、そうじゃないって思えた……」
セリアはそっとロッティに視線を向ける。くしゃくしゃに顔が歪み、涙で潤んだ瞳はとても弱々しく、明るさなど欠片も感じさせなかったが、それでもあの頃の、学び舎で一人ぼっちで過ごしていたロッティを広い世界へと連れて出してくれたセリアの懐かしい顔があった。
「私、騎士になって良かった……ロッティを、今度こそ、庇えたから……ロッティはそんな人間じゃないって、ようやく誰かに伝えられたから……私、騎士になって良かったって、やっと心から思えたよ……良かったよぉ……」
セリアはそこまで話すと、悪夢から覚めた子供のようにわんわんと号泣し始めた。耳元のその泣く声を、ロッティは子守唄のように優しい気持ちで聞いた。セリアの泣き声は、『ルミエール』の借家に着くまでずっと続いた。地下への入り口に辿り着いた頃には、セリアは安心しきったように穏やかな顔で眠っていた。ロッティはその寝顔を大切なもののように目に焼き付けながら、セリアをそっと降ろし、同行してきた人たちを地下へ避難させてから再び火が激しくなる街の中へと突き進んでいった。
城の方を目指しながら、凄惨な光景が広がる街の中から人の姿を探すが、見つかってもすでに遺体となっているか、騎士たちばかりであり、ロッティは指名手配されていることを考慮し、騎士たちの避難はハルトたちや『シャイン』のメンバーに任せることにして、住人の姿を探すことに専念した。
ふと、ガーネットのことを想った。ロッティが指名手配されていたというのは、恐らく例の帝都の法に則ってのことであろう。そうすると、ロッティが指名手配されているならば、ガーネットも同じように騎士たちに狙われる側の人間になっているのではないかと予想した。その上、ガーネットは今一人で、魔物やリベルハイトの人間が蔓延っているであろう街の中を巡っている。ロッティは嫌な想像をしないではいられなかった。
「それでも……俺は、皆の方を選ぶからな……」
ロッティはガーネットの言葉を思い出して、自分にそう言い聞かせた。あれほど厳かな雰囲気を持ちつつも、確固たる平和を築いていたように見えた帝都の街並みがここまで荒れ狂っている光景を見た後で、ガーネットの姿を見かけてしまえば、どうしてもその決意が揺らいでしまう予感がロッティにはあった。セリアのおかげで押された背中を、再び怖気づかせて後退させるようなことをしてしまえば、それこそアリスや、ブルーメルにニコラスが願った世界は遠のくと感じた。ロッティは、努めてガーネットの姿を探さないように意識して、城へと向かって走った。息が詰まりそうになり、胸が苦しくなっても、ガーネットとの日々をひたすら思い返しては忘れないようにと胸に刻みつけて、気を抜けばすぐに違う方向へ向かいそうになる足を動かし続けた。
グランが見えなくなったが、依然として崩壊した城の上空で幻想的に舞うノアの姿を気がかりに思いながらも、貴族街に辿り着くと、より凄惨な光景に出くわし、ロッティは思わず息を呑み足を止めた。
むわっと漂う血の臭いに違わず、目の前には多くの騎士の恰好をした人間や高そうな衣服を身に纏った人たちが何人も、血を流しながら倒れていた。遺体の傷もひどく、魔物に食いちぎられたかのように身体の一部を失っていたり、首を切断されていたりしていた。あまりの惨さにロッティは喉元まで迫る吐き気を飲み下すのに精一杯だった。くらくらとする頭を振り、恐る恐るその遺体の道を進んでいく。生き残っている人がいればすぐにでも助け出したかったが、悲しくも予想通り、そんな人がいる気配はなかった。
やがて城の門が見え始めてくると、騎士たちが交戦しているのか騒ぎがにわかに聞こえてきた。しかし、それも一瞬で静まり返り、不気味な静寂がロッティの胸をざわつかせた。ロッティは慌てて門の方を急いだ。
そして、初めて来る門の前に辿り着くと、ロッティは目の前の光景に言葉を失った。騎士の遺体と魔物に囲まれるようにして佇む唯一の人物も、ロッティに気がつくと、驚いたような悲しんでいるような複雑な表情を浮かべた。
「ロッティ……」
火の上がる音や、魔物のわずかな息遣いも、何もかも音が一切失われ、ロッティの耳には、その人物、シャルロッテの声だけが聞こえてきた。