第20話
文字数 3,398文字
目が覚めると、見慣れない土の天井が広がっていた。体を起こそうとすると左腕と左脚に裂けそうになる感覚に襲われ、熱を帯びてくるのを感じた。なるべくそれらを刺激しないように起き上がり、その音が反響するのを聞いてようやく自分が地下の世界にいることを理解した。
今はまだ争いの最中ではなかったか。ガーネットは覚束ない記憶を辿り、ヨハンと対峙し、爆弾が落とされたことまでを思い出すと、額に嫌な汗を掻くのを感じた。ガーネットは力を振り絞り何とか立ち上がって地上を目指そうとする。そして、しばらく歩いてみてようやく、この地下の世界に自分しかいないことに気がついた。自分の聴力ならば、聞きたくないもないことまで聞き取ってしまうほど遠くの音や小さい声まで拾うというのに、ガーネットのいる辺りはいくら待ってみてもしんと静まり返るだけであった。
その静寂に焦燥感を駆られたガーネットは、いつの間にか銃が入っていた懐に代わりに便箋が入っているのに気がつき、何か手がかりになればと思いそれを広げた。
『こんにちは、ガーネットさん
貴方のことはロッティから聞いています。この手紙を読んでいる頃は、辺りに誰もおらず一人でいることだと思います。
とりあえず、起きてこの手紙を読んでいるなら、しばらくそのままその場に待機していてください。今、皆の協力に出かけています。すぐに戻ります。
僕が戻ってきたときには、我が儘で申し訳ないですが、ヨハンという人物について少しお話しいただけると嬉しいです。
『ルミエール』のジル』
手紙の内容が、いまいちガーネットの頭に入って来なかった。ぼんやりとしたもやもやが、内容を咀嚼するのを阻んでいるような感覚に惑わされていた。ガーネットは、その手紙を丁寧に折り畳んで仕舞い直し、ロッティに地下通路を作らせた時の記憶を頼りに、地上に続く出口を目指していく。腕と脚の傷は確かに痛むが、誰かの手によって手当てされており、そのためヨハンに追われているときほど歩くのは苦ではなかった。
やがて地上へ出る梯子が見えてくると、ようやく人の声が聞こえ始めてきた。手紙を読んだときに感じていた予感が、もしかしてという期待と、やっぱり上手くいくはずがないという不安が入り混じった気持ちに変わっていった。そんな複雑な心境のまま梯子を上っていくと、その半信半疑の気持ちは確信に変わった。
炎が燃え上がり、崩壊の音がいつまでも響き、血の色で染められた、そんな予知夢で幾度となく見てきた凄惨な光景はどこにもなく、目の前には人と人が協力し合って崩壊した街の復興に勤しむ姿で溢れ返っていた。
ヨハンの最期の言葉が自然とフラッシュバックし、その言葉の意味にようやく気が付けた。ガーネットは、今にも心臓が飛び出してきそうなほど高鳴る胸を必死に抑えながら歩いていく。いまだに現実感が湧いてこず、手紙に書かれていた指示も忘れて、店の商品をウィンドウショッピングするようにすれ違う人々の心を覗き見してしまう。しかし、それらの心には、ガーネットの期待を裏切るようなものはどこにも存在していなかった。
「あの」
ガーネットは思わず、新品のレンガの山を積んだ手押し車を重たそうに押している男性に声を掛けてしまう。声を掛けられた男性はきょとんとした表情で「はい?」とガーネットに反応した。
「あの、今、皆は何をしていらっしゃるのでしょうか。私、つい先ほど目が覚めたもので」
ガーネットは、聞かなくても読み取れてしまうようなことをつい尋ねてしまっていた。自分でも無駄なことをしていると感じていた。男性は嫌な顔一つせず顎に手を当てた。
「ええと、無理をなさらずに……そうですね、今はとりあえず、この街を何とか元に戻そうと色々やってますよ。曲がりなりにも帝都でしたし」
男性は最後に「お怪我大事になさってください」とだけ言うと再び手押し車を押し始めた。その男性からは口にはしていなかった不安の色を読み取っていたが、それでもガーネットに答えたその言葉に嘘偽りはどこにもなかった。
数歩進んで、ガーネットは再びすれ違う男女に声を掛けた。その女性と一緒にいる男性は、以前まで未踏の大陸出身の者を捕まえて一儲けしたいと考えていることを読み取っていた男性であった。
「別に……ただ、生き残った皇女様がひとまずは協力し合うようにって言っていたから」
男性はそっけなくそう言ってさっさと立ち去るが、その男性からも特に敵意を読み取ることはなかった。一緒にいた女性が、嬉々とした感情を表しながらガーネットにそっと耳打ちした。
「あんな風に素っ気ない態度取ってるけど、あの人も本当はもう争いごとは懲り懲りだって思ってるんですよ。貴方のことも……お城から指名手配されているのを見てやる気出してたんだけど、もういいやって」
女性は気楽な性格なのか、そんなことを軽く言ってのけるが、そんな軽い口調とは裏腹にガーネットの胸の内は限界を迎えていた。女性も男性に置いてかれないようにガーネットに軽く会釈してから追いかけていく。その後ろ姿を見送っていると、頬に熱いものが流れるのを感じた。
ガーネットは再び歩き始めた。瞳からはますます熱いものが流れ出てくるが、それを拭うのも忘れて人の心を盗み見ては今のこの状況が現実であることを確かめていた。気づかぬうちに小走りになってしまい、その際に身体を走る痛みにいちいち、自分が生きていることを教えてもらっていた。そうでなければ、いつまでも自分が生きていることを実感できなかっただろう。
陽光に照らされる帝都跡を歩いているうちに、よく知る人物の姿を見かけた。その人物は、両腕や脚などを包帯でぐるぐる巻きにさせながらも、ちっともそんな怪我は大したことでもないかのように皆の作業を手伝っていた。そして、ガーネットの姿を確認すると、柔らかく微笑み、ガーネットの方へ向かってきた。その表情から緊張のようなものは感じられず、その表情の背後にある心のうちからも、ガーネットはすべてが終わったのだと確信した。ふわふわと地に足着かない感覚がようやくなくなり、これが現実のことであるのだと実感を伴い始め、頭がふらついた。
「ただいま、ガーネット」
「おかえり、なさい」
つっかえそうになりながらも出てきた自分の言葉が思ったよりも震えて、濡れたものであったことにガーネットは自分で驚いていた。それ以上に、ロッティの声がとても懐かしく聞こえたことで、余計に涙の勢いが強くなってしまった。
「泣きすぎだ。目が腫れる」
「だって……だって……」
ロッティの声を聞くたびに、ガーネットはますます涙を溢れさせる。ロッティは少し躊躇ったように一度伸ばしかけた手を引っ込め逡巡するが、やがて意を決したようにもう一度手を伸ばし、ガーネットの涙を拭う。
「ヨハンや、姉さ……シャルロッテには感謝しなくちゃな」
「うん……」
「……ガーネットは、何回未来を見ても、こんな風景は見えなかったんだよな」
「うんっ……」
「……ガーネット、生きててよかった」
「……っ」
ガーネットは年甲斐もなくその場に泣き崩れてしまった。長年見続けていた悪夢がどこかへ消えてなくなったのだと実感すると、全身から力が抜けていく。緊張の糸が、ぷつんと音を立てて切れていく。
「とても百年以上生きてきたとは思えないな、ガーネット」
「……意地悪だな、ロッティは」
ロッティに非難の目を向けようとしたら、そんな気も失せるような、今まで見たこともない表情でロッティがガーネットのことを見守っていた。その表情から読み取れた感情に、ガーネットの顔が火照ったように熱くなっていく。
ロッティが手を差し伸べる。ガーネットは自分でもびっくりするほどその手を素直に受け取り、ロッティの横に並び立つ。ロッティと同じ方向を向いた先には、未来を不安に思いながらも、これからを生きようとする人たちの姿があった。
「これからも一緒だ。ガーネット。一緒に、未来を生きよう」
ロッティのその言葉は、ありきたりな言葉であるにもかかわらず、とても新鮮な言葉のように聞こえ、ガーネットの胸を高鳴らせた。ガーネットは繋いだ手をより強く握った。温もりが伝わってくるこの手を、しばらく離したくなかった。
頭上で二羽の鳥が羽ばたき、朗らかに鳴く声が聞こえてきた。ガーネットはその声がとても心地良かった。