第19話
文字数 3,408文字
「おいおい……」
グランは無造作に自分の分のカップの紅茶をかき回した。アリスは視線を動かさず一心にグランを見つめていた。傍から見ているロッティたちも息が詰まるようなその視線に、グランも音を上げたように顔を上げた。
「なあアリス。お前はまだ、皇女になるつもりでいるのか?」
「……それはもちろん、そうよ」
グランの問いに訝しみながらも、アリスはおずおずと頷く。
「皇女になった後はどうする。アリスはこの帝都を、世界をどうするつもりだ」
「……そんなの決まってる。誰にも誰かを虐げさせない、皆が同じように生きていける世界に」
「出来るのか?」
グランがアリスの言葉を遮るように鋭い口調で問い直す。そんなグランをアリスは冷静に観察しながら、全く動じることなく静かに答える。
「出来るかどうかじゃない。私は、そのために生きるって決めたの。自分の理想を信じて、その実現のために、私は私の人生を捧げる。もちろんそんな世界が実現されればそれが一番良いけれど……でも、たとえ夢半ばで散っていくことになったとしても、私は決して後悔しない」
アリスはそっと、グランに手を伸ばす。気丈に話し、気高く話すアリスであったが、その手はかすかに頼りなく震えており、アリスも一人の少女であることを思い出させた。
「何度も言ってきたけれど、私がその理想を追いかけられるのは……グランがいるから。私の人生を照らしてくれたグランが生きられる世界にするためだったら、私はどんな努力も惜しまない。私を救ってくれて、私と何も変わらないグランが生きることを許されない世界なんて、絶対に認めるわけにはいかない、もの……」
アリスが首を揺らしながらも、手だけはずっと差し伸べ続けている。グランはアリスの手の震えを止めるように、そっと包み込んだ。
グランとアリスの視線が初めて合う。互いにはにかみ合い、くすぐったそうに視線を逸らす。それでも、もう一度、互いに示し合わせたかのように視線が交わる。
「アリス、生きてくれ。俺も、お前がいない世界なんて認めない。お前がいたから、俺はこの生を生きてこられた」
グランの言葉に、アリスはどこか痛むかのように表情を歪めながらも、嬉しそうな笑みを浮かべようとした。しかし、それは形にはならなかった。何度アリスが笑顔を見せようともそれを浮かべることは出来なかった。アリスはそこで、唐突に何かを悟ったように息を呑み、懸命に何かを伝えようとした。
「グラン、大好きだから……私の、命より大切な……大切な、おともだ……ち……」
アリスはそこで気を失ったかのように力が抜けテーブルに頭を打ち付けそうになり、グランが咄嗟に手を伸ばして支えた。しばらくグランがその態勢のままにしていると、可愛らしく穏やかな寝息が聞こえてきた。それを確認すると、グランはゆっくりとアリスの頭をテーブルに落ち着けさせた。
「アリス……俺にとっても、アリスは一番の友達だ……お前のおかげで、俺も普通に生きたいと思えた」
グランは一度だけ、アリスの髪を丁寧に撫で上げ、その寝顔を見た。アリスの寝顔は穏やかで、幸せそうな夢を見ているのだと思わせるような幸福感に包まれていた。グランはその髪をさっと下ろしその寝顔を隠すと、ぽんぽんとその頭を撫でて立ち上がった。
「バニラ、ガーネット……それにロッティ。アリスのことは、任せたぞ」
「これは一体、どういうことですか?」
バニラが扉の前に立ちはだかり、グランを強く見つめる。そのバニラからは、そのままグランを出て行かせようとはしないという意志が感じられた。グランは戸惑ったように足踏みし、弱ったように頭を掻いた。
「グランは、ヒトニスの宝珠を使って紅茶を淹れてたの。記憶に影響を及ぼすとされる宝石の力で、おそらく……アリスの記憶から、自分の存在を消すように願ったのね」
「この一週間ぐらいどこに行ってたかと思ってたが、グランもユグドラシルの樹海に向かってたんだよな」
「ああ、そういうこと」
ロッティが説明を付け足すとグランが観念したように相槌を打った。バニラは混乱したようにガーネットやロッティ、そしてグランの顔の間で目線が行ったり来たりしていたが、やがて無理やり自分を納得させたのか、静かに俯いた。いつもアリスの傍で鉄仮面のように無表情でいるバニラにしては珍しく、その表情を苦悶に歪ませていた。
「では貴方は……お嬢様を置いてどこかに行く、ということなんですね」
「少し違うな……すべて、なかったことにするんだよ」
「……お嬢様は、悲しみます」
「お前にそんな風に言ってもらえるとはな…………それでも俺には、これぐらいしかしてやれねえ」
グランがバニラに退くように目で訴えると、バニラも渋々グランが通るスペースを空け、壁側に静かに寄った。扉の前で立ち止まったグランは、名残惜しそうに天を仰いだ。
「アリスが死ぬとしたら……幻獣族を匿っていた罪で処刑される……本来の予知夢ではそうなってるんだろ? ガーネット」
グランが震える声でガーネットに問いかける。ガーネットも答え辛そうに表情を曇らせていた。
「ええ……本当は私たちも、グランと同じようにした方が良いと思うけど……」
「それはダメだ……こいつの、理想に従う生き方までは奪わないでやってくれ」
グランの切実な声に誰も何も言えなくなった。矛盾を孕んでいるようなグランの計画にバニラも何か言いたいことがあるかのように困惑した表情を見せていたが、最後まで静かにグランのことを見つめるだけだった。そこには、アリスのものとは違った信頼の証が表れており、グランもそのバニラの態度に満足したようにほっとしていた。
昨夜、グランはこの計画をロッティとガーネットに話していた。このやり方では、結局ロッティやガーネットを匿った罪で殺されてしまう可能性があるのではないか、グランの存在が記憶から消えることでそもそもアリスがこれまでのようにこの小屋に訪れて下町へ訪問することもなくなるのではないか、など疑問やグランの葛藤については、散々話し合った。その結果、最終的にロッティもガーネットも、グランの願いを聞き入れることに決めた。そして、グランがいない間に何とか解決策を見つけることを約束した。その話し合いの最後には、不老長寿が叶うと謳われるシクマの光根を渡された。
「グラン、必ず戻って来いよ」
「ロッティ……」
グランが振り返り、何とも言えない顔でロッティを見つめてきた。
「グラン、さっきのを聞いてただろ……アリスにはお前が必要なんだよ。だから、絶対に戻って来いよ」
「……へっ。誰も戻ってこないなんて言ってないだろ。だから……それまで、アリスを守ってやってくれ。それと……」
グランはそこで一度躊躇うような素振りを見せながら、やがて腹を括ったように一瞬だけロッティをちらりと振り向いた。
「俺にそんなこと言うならお前も……とっとと仲直りするんだな」
グランはそう言い残して、今度こそ扉を開けて出て行った。グランが出て行くのを見届けた後、誰も何も言えなかった。虚しさとグランの口をつけていない紅茶の香りがロッティたちの間に流れていたが、その虚しさをアリスのマイペースな寝息が照らそうとしてくれていた。
その後、バニラがアリスを背負い、いつもより早い時間ではあるが今日のところはそのまま城に帰ることになった。小屋にはロッティとガーネットの二人が静かに取り残されていた。世界から切り離された空間は急に居心地が悪くなった。
「グランは……昔からそうだった」
グランの最後の言葉の影響なのか、ガーネットが独り言のように静かに語り始めた。
「昔から、アリスが誰かのために動くことで傷つくことを嫌っていた。だから初めは、下町に向かうことも認めていなかったみたい……でも、グランも、変わったのね」
ガーネットはしみじみとそう言ったが、ロッティにはどうしてもそうとは思えなかった。結局グランは、自分のせいで傷つくアリスを見たくないと思って逃げたのだと感じていた。ロッティは複雑な気持ちになりながら、それでもどっと疲れが襲ってきたように眠くなり、ガーネットに断りを入れてから自分の部屋に戻った。
明日からどんな日になるのか、運命はこれで変えられたのか、そんなことに思いを寄せながらロッティは静かに早めの眠りに就いた。