第7話
文字数 3,549文字
嘘を言う気にも本当のことを言う気にもなれなかったロッティは、曖昧にごまかした。アノンは、その返答に「そうか」とだけ答えた。納得したのかどうかは分からないが、興味を失くしたようでそれ以上追及するようなことはしなかった。しかし、フルールが途中慌てたように台所を右から左へと急いで移動しているのを見て、思いついたようにアノンは再びロッティの顔を覗き込んできた。
「じゃあ……あんたはこの世界のこと、どう思っている? なんなら、この街のことでも良い」
「世界って……そんな大雑把に聞かれても……」
その質問は見知らぬ人間にいきなりするような質問ではなく、戸惑いを感じつつも、ロッティは真面目にそのことについて考えてみることにした。やけに熱を帯びた青年の態度に押されるようにして、ロッティはこれまでのことを振り返りながら、世界を見つめ直した。
「俺は、よく分からないけど……でも良い世界なんじゃないかと思います。冒険好きな奴も、平穏に暮らしたいと思う人も暮らしやすい、世界、だと思います」
ロッティはハルト含めた『ルミエール』のメンバーや『ルミエール』を通じて出会ってきた人たち、リュウセイ鳥の街の人たち、かつて孤児だった自分を引き取ってくれた街の人間たちの顔を思い浮かべた。少なくとも自分の知るところでは、些細な厄介ごとはあれど自分たちの暮らしぶりに対して根本的に不満を抱えている人には会わなかった。そんな人たちを客観的に振り返り、暗く沈み込む気持ちを抑えながら、ロッティは冷静にこの世界のことを評価したつもりだった。
「そうか……」
ロッティの返答を聞いてしばらく黙っていたアノンだったが、やがて深く息を吐きながらそれだけ呟いた。そのときのアノンは、がっかりしたわけでもなく、かといってまるっきり賛成しているようにも見えず、表情からは何を考えているか分からなかった。沈黙が訪れ、鼻歌交じりにフルールが調理する音が聞こえてきた。
アノンはしばらく考える素振りを見せたが、よほどの話し好きなのか、再びアノンはロッティに話しかけてきた。
「俺はな、あんたが言うような優しい世界だとは思えない。そのために機械工を学びに来たんだ」
「機械工を……?」
「確かにあんたが言うように、冒険が好きな人間にとっては生きやすい世界になっているし、そうじゃない人間も魔物を恐れずに平和に暮らすことが出来るようになっている。だけど、この世界にはそういう人たちだけじゃないんだ。自由すら許されないほど貧しい人や、魔物のせいで大切な何かを失って絶望したまま生きている人に……よく分からないうちに処刑されてしまう人も、いる」
アノンの瞳は徐々に熱を帯び始め、静かに話してはいるものの、テーブルの上に置かれた拳は先程よりもぎゅっと強く握りしめられていた。
「なのに帝都や大きい都市の奴らはそいつらに何もしてやれていない。だからこの世界は、弱い人間が生きづらい世界なんだ。俺は、そんな弱い人間が生きられるような世界にしたい」
「……アノンさんは、色々なことを考えているんですね」
ロッティは、アノンの言葉を超えて伝わってくる情熱に圧倒されて、そんな言葉を返すことしか出来なかった。しかしロッティのその反応を良い方向に解釈したのか、アノンは機械工を学ぶ理由について嬉々として話し始めた。そのアノンの情熱に、ロッティは、胸の内で羨望の気持ちが膨らんでいくのを感じて胸が苦しくなった。それでもその感情を表すのはアノンに失礼だと考え、ロッティはそれをおくびにも出さないように努めながらアノンの話に耳を傾け続けた。
アノンの話は、フルールが料理を作り終えるまで続いた。食欲をくすぐられるような芳醇な香りがする料理は、見た目通り優しく温かい味をしており、ロッティは勝手に感じていた心の傷が癒されていくのを感じた。アノンも料理が気に入ったのか、じっと上目にフルールの方を凝視していたが、当のフルールはそんなのどこ吹く風で、無表情のまま淡々と自分の料理を口に運んでいた。
フルールの手伝いは休みなく続いた。毎朝早くにフルールに起こされ、シリウスの街をあちこち歩き回っては甲斐甲斐しく住人の困りごとを手伝う日々は、特に何か危険が潜んでいるような気配はなく、自分がこんな世界に浸かって良いのかと恐れ多くなるほど、平穏に過ぎていった。
初日こそなかったが、フルールの手伝いは基本的に老人や診療所通いの患者といった人に対する介護扶助や、住宅破損などの際の保険手当の処理が主な内容であった。
「いつもありがとうねフルールちゃん。ありゃまあ、かっこいい兄ちゃんまで連れちゃって、とうとう彼氏でも出来たのかい」
「そりゃあいい。フルールちゃんにもそろそろ、あのやりたい放題に振り回すお嬢さん以外にもそういう人がいて出来て欲しいと思っていたところだよ」
「いいえ、こちらは私の仕事を手伝ってくださってるロッティ様です。さあお婆様方、お食事とお薬を持ってきましたよ」
普段からこのような手伝いをしているのだろう、老人や患者にはすっかり顔を覚えられ可愛がられていた。きっと今までも多くの人を看てきたのだろう、ロッティたちが初めてフルールに出会って街を案内された日に多くの人がフルールのことを気にかけていたのもその賜物なのだとロッティは納得していた。
「そのときブルーメル様がですね……ふふ」
基本的に人と話すのが苦手なロッティであったが、不思議と初対面であるはずのフルールとの会話はそれなりに弾んでいた。ロッティから見てフルールは話し上手で、第一印象と違って意外にも話し好きなようであった。次の依頼人のところまで歩く間、フルールは街の名物やら最近あった街の人との面白い話まで、様々な話題で雑談を盛り上げてくれた。その話の中でも一番多かったのが、ブルーメルの話題であった。ブルーメルとの思い出を話すときのフルールは、決まって口角を上げ、子供のように瞳を輝かせていた。
そんな風にして数日間間近で見てきたフルールの印象はがらりと変わり、ガーネットに似て無口で無表情で、感情の起伏に乏しいイメージだったのが、皆に好かれる大人しい娘のような印象へと変わっていった。
フルールの手伝いは、どれも献身的なものばかりであった。依頼をどこでどうやって受け取っているのかは知らないが、フルールの手伝いは一日も休むことなく行われ、時には力仕事を要するときもあり、ロッティがフルールに代わってすることもあった。そんな日々を通じて献身的に色々な人を手伝っていると心が温かくなるような気がしてくるが、ふとその温もりに浸かろうとすると、初日に出会ったアノンの言葉が頭をよぎっていく。自分たちが相手をしている人たちは、果たして、アノンの基準ではどちら側の人間になるのだろうか。そんな考えが一度でも浮かんでしまうと、温かくなった心も何だか簡単に信じてはいけないもののように思えてきた。
「……ロッティ様? 手が止まっているようですが、どうかなさいましたか?」
「ああ、悪い。今すぐそっちに持っていく」
アノンの言葉が引っ掛かりながら手伝いをしていると、ある日、こんな話を噂に聞いた。
「何か最近委員会に入った人がえらい働き者らしいな」
「ああ、つい最近いきなり上院委員会に加わって、他の委員の奴らとばちばちと議論を繰り広げてるらしい」
その話を聞いて、一発でガーネットのことだと察したが、その話に出てくるガーネットの人物像と自分の中でのガーネットへの印象が食い違っていて少し混乱した。
「ガーネット様、頑張っていらっしゃるみたいですね」
「そうみたいだな……ちょっと想像できないけど」
「ブルーメル様がいきなりガーネット様を委員会のメンバーになるように提言されたときは驚きましたが、きっとブルーメル様はガーネット様の優秀さを見抜いていたのですね」
「そういう……ことなのかなあ」
子供が自分の好きな友達のことを自慢するように鼻を高くして誇らしげに微笑んでいるフルールに対して、ロッティは素直にその説明を受け取ることは出来なかった。先日のリュウセイ鳥の街であったことを踏まえると、とてもガーネットがただ純粋にシリウスのためだけに行動しているとは思えなかった。
「……今度、暇そうだったら聞いてみるか」
リュウセイ鳥の街でのことを経て、少しはガーネットという人物に近づけたとロッティは信じていた。ならば、今度は少しは答えてくれるかもしれない。かすかな期待を込めてロッティはそう呟いてから、すっかり前を歩いているフルールに置いてかれないように駆け寄った。