第5話
文字数 2,928文字
「なあガーネット、何も確認もせずにほいほい簡単に了解して、本当に良かったのか」
「ええ」
短くそれだけしか言わないガーネットに、ロッティも半ば諦めたように溜息を吐いてしまった。しかし、二人並んで歩いている途中で、ガーネットが急に立ち止まった。横にいた気配が急になくなり、気になったロッティはガーネットの方を振り返る。
ガーネットは具合でも悪くなったかのように目を伏せじっとして立ち止まっていたが、どうしたことかと様子を窺っていると、ガーネットは意を決したように俯いていた顔を上げた。
「ごめんなさい。でも、もうじき……もうじき、その理由を話すから。そのときまで私を信じてくれると、嬉しい」
思い詰めたような、いつになく真面目で少し泣き出しそうにも見えるガーネットの表情に、ロッティは圧倒されて「分かった」と答えることしか出来なかった。ガーネットはそれから少しだけ頬を赤く染めて、顔を伏せたかと思うと、ロッティを置いてさっさと先に行ってしまった。
それから宿で過ごした時間はそんなに長くはならなかった。ブルーメルとの対談から二日後、フルールが一通の手紙と分厚い書類の束を持って宿の部屋に現れた。
「こちらが新しい住居先の情報と、入籍の際に提出する必要のある書類です。よく目を通して都度ご確認してからご記入してください」
しかしガーネットは丁寧なフルールの説明の甲斐もなく、あの日対談したときのブルーメルに負けずとも劣らない滑らかさでペンをさっさと動かして書類への記入をさっさと終わらせた。意地でも張っているようなその速さにロッティも、フルールでさえも驚いていた。フルールが「本当に書類の方は大丈夫ですか。確認するところはきちんと確認出来ましたでしょうか」と念入りに訊いているが、ガーネットはそれらすべてに「ええ」と終始そっけなく答えていた。フルールは少し拗ねたような膨れっ面になりつつも丁寧にガーネットから書類を受け取りその場はひとまず帰っていった。
次の日から、早速ブルーメルが用意してくれたという間借りの家に住むことになり、名残惜しくも豪華な宿から去ることになった。あっという間に進んでいく事態にすっかり置いてかれているロッティは、状況を整理する暇も与えられないままフルールに引っ張られるようにしてブルーメルの用意した家に連れていかれた。
件の家は、樹々が植えられた、案内されたときにも通った講堂が真正面に見える通りに面するところにあった。馬車の往来もほどほどにあるため静かに寝ることは出来ないかもしれないな、とロッティは思った。家の中は居間や浴室、洗面所などがある以外にも、きちんとガーネットとロッティの部屋が分かれていた。ロッティはそのことにほっと安心する反面、旅の過程で住む場所がどんどん豪勢になっていくことに戸惑っていた。
「この前のリュウセイ鳥の街では貴方に働いてもらったからね。今度は私が頑張るよ」
ガーネットはどこか嬉しそうに言葉を弾ませると、そのまま軽快な動きで講堂に赴く準備をしていた。しかし、ガーネットの頼もしい台詞に、ロッティの心境は複雑だった。
「それじゃあ、早速行ってくるよ」
「ああ……行ってらっしゃい」
無表情で出発するガーネットをロッティは何も考えないようにして見送った。すると、ガーネットと入れ替わるようにしてフルールが訪ねてきた。フルールは、一度丁寧にお辞儀するのは良いが、そのままロッティの返事も待たずにずかずかと中へ入ってきた。
「ブルーメル様の命でやってきました。本日は大丈夫ですので、明日からお願いいたします。ロッティ様、何卒よろしくお願いします」
自分の知らぬところでどんどん話が進んでいく感覚もあって、明日から何をやらされるのだろうかという不安に襲われていた。そんなロッティに対して、フルールは育ちの良さを思わせる透き通った真っ黒な瞳を細めて微笑んだ。そして、ついでのように「あと、無礼講で構いませんので、そちらの方が私としても助かります」と、悪戯っぽい微笑みに変化させながら付け足した。
ガーネットが帰ってきたのは、夜も遅く、ちょうどロッティが浴室から上がって日記を書いているときであった。いつもの無表情のガーネットの顔にわずかに疲労の色が滲んでおり、ロッティに浴室の準備が出来ていることを聞くとさっさと浴室へと入っていった。
百歳を超えているかは分からないが、それでも見た目はそこら辺の少女と変わらない女の子が疲れた状態で夜遅くに帰ってくるのは、いくら発展したシリウスで、講堂から近いと言っても危険だと考えたロッティは浴室から上がったガーネットに迎えに行くことを提案した。
「やめて欲しいな、それは恥ずかしいから」
ガーネットは全く恥ずかしがっていなさそうなケロッとした表情で、しかし頑固にロッティの提案を拒否した。
「大丈夫、そんな危ない目には遭わないようにする。でも、ありがとう」
お礼を言う一瞬だけ、少し頬を綻ばせた。赤色の瞳の奥に潜む真意を探ろうとするが、ガーネットはさっさと自分の部屋へと戻っていった。
翌日、ガーネットはロッティが自分の分の朝食を用意している間に出かけてしまった。そのガーネットの仕事熱心振りにロッティは舌を巻きながら、昨夜買ってきたパンを食卓に並べる。
寝惚け眼で朝食を腹に流し込んでいると、家の扉がノックされる音が聞こえてきた。ぼんやりしていた頭も、まるで寝耳に水を垂らされたように徐々に目覚めてきて、まさかと思いつつロッティが玄関を開けに行くと、予想していた通りフルールが立っていた。着ているドレスも、この間着ていた物よりも白くなっているような気がした。
「おはようございますロッティ様……大丈夫でしょうか。とても眠そうでございますが」
「いや……そんなことはないで……ない、ぞ?」
無礼講でとお願いされたことを思い出したのは良いが、わざわざ言い直さなくても良かったと軽く後悔するような妙な話し方になってしまった。これでは眠いですと答えているようなものだった。眠そうなロッティに合わせてかフルールが不思議そうに首を傾げた。
気を取り直して、外に待たせたままにするわけにもいかないと思い至り、ロッティはフルールを家に上げようと促すが、フルールは家に入って来ずにきょとんとした顔で首を伸ばした。
「すみません……準備のほどはまだだったでしょうか」
フルールは恥ずかしそうに頭を掻いたが、ロッティもロッティですっかり恥ずかしくなった。『ルミエール』にいたときは朝早くどころか夜明け前に起きることや夜通し寝ずの番をすることもあったのだが、いつの間にか普通の生活に体が慣れてしまったのだと気がついた。この平和ボケした生活を送っている自分がどこか嘘のようで、十二歳のあの日街を飛び出した自分が望んでいたものがこういう生活だったような気も、そうでないような気もしたが、今はそんなことよりも先に、迎えに来たは良いものの自分のせいで困ってしまっているフルールをどうにかすべきだと、とりあえずロッティは改めてフルールを家に上げることにした。