第20話
文字数 3,162文字
「私も、しばらくここを空けても良いようにあらかたの仕事を片付けてから行こうと考えていますので、二日間ほど時間を頂ければ幸いです。こちらの準備が済み次第、ロッティ様の家へと伺わせてもらいます。それでは……」
「ま、待てって……待ってください!」
早口で捲し立て、さっさと話を切り上げようとするブルーメルをロッティは慌てて呼び止めた。しかし、ブルーメルが振り返り見たときの眼光は、ロッティがこれまでの人生で見たこともないぐらい鋭く、有無を言わせない迫力があった。
「質問などはすべて二日後にて聞きます。それでは、もう下がってよろしいです」
ブルーメルは毅然とした態度を貫き、間もなくしてロッティをフルール共々部屋の外に追い出した。ロッティはフルールの顔を見るのも憚られたが、どうにかしてこの場から遠ざけた方がいいような気がして、フルールを連れて仮住まいの家に帰ることにした。
家に帰ってからというもの、フルールは一言も言葉を発さなかった。テーブルの席に着かせても、ずっと虚空を見つめるばかりで、焦点のあっていない瞳からは光が消えていた。ロッティもそんなフルールの痛ましい姿に、何か声を掛けてやらなければと思いながらも、思いつくどんな言葉も不適切なような気がして気まずい沈黙が続くばかりだった。
昼が過ぎ、日が落ち始めて夕暮れが訪れようとしても、フルールはまともに話さなかった。ロッティが何か飲み物を用意したり、散歩に出ようかと提案しても曖昧に相槌を打つだけで、会話が続くようなことはなかった。その様子に、ロッティはひたすら、じっと座るフルールを見守った。
やがて玄関が開く音と共にガーネットが帰宅してきた。いつものように「ただいま」「おかえり」を交わし合いガーネットが自室に戻り、着替えなどを済ませて居間にやって来て、フルールの姿を確認すると、気の毒そうに少しだけ眉を下げた。
「ロッティ。何があったか、説明してくれる?」
ロッティは、朝方に起きたブルーメルとのことのあらましをガーネットに伝えた。話を聞き終え「そう……」とだけ応えたガーネットは、まるで自分も同じように傷ついたように顔を歪ませ、そっとフルールの目線の高さに合わせ、肩にそっと手を置いた。
「フルール。私のことは分かる?」
ガーネットの呼びかけに、フルールは力なく頷く。
「ねえフルール。ブルーメルは貴方が大切だから、貴方を遠ざけたのよ」
フルールは無言であるが、ブルーメルの名が出たときに確かにピクリと肩を震わせた。
「ブルーメルはロッティを必要とする依頼をしたのでしょう? なら、それはきっととても危険な仕事。だから、大切な貴方を万に一つも危険な目に遭わせないために、貴方を一時的にここに居座らせるように言ったと、私は思う」
この上なく声を柔らかくして話すガーネットの説明に、フルールはゆっくりとガーネットの方を向く。虚ろだった瞳に、静かに感情が宿っていった。
「ブルーメルと一緒に講堂で働いている私が保証する。ブルーメルは、貴方を疎んじく思っていない。ブルーメルにとって貴方は、機械人形だとかそんなこと関係なく、大切な存在なの」
ガーネットはフルールの頭を撫でた。フルールの頭に手が触れたとき、フルールは驚いたように目を見開いたが、やがてガーネットに甘えるように抱き着いた。ガーネットもぎこちなくフルールを受け止め、そっと頭を撫で続けた。その光景に、ロッティは昔のことを思い出し、胸が締め付けられた。
どうしてこんなにも、大切な人と一緒にいることは難しいのだろうか。フルールも、かつてロッティ自身もピリスや両親を亡くし、『ルミエール』を離れたときに感じた苦しみを味わっているのだろうか。もしそうだとしたら、自分に何がしてやれるだろうか。ガーネットに対してすら未だに何も出来ていない自分に、何が出来るのだろうか。そんなことを考えながら、二人が慰め合うように抱き合っている光景を、ロッティはぼんやりと眺めることしか出来なかった。
その日に付けた日記は、虚しさと苦しさでいっぱいだった。
ブルーメルの準備期間の間にロッティも出来るだけ準備した方が良いとガーネットに言われ、フルールと帰ってきた翌日、ロッティは当てもなく街を巡っていた。フルールとの奉仕活動の日々ですっかり覚えた道をすらすらと進んでいくと、見慣れた街並みがあるはずなのに、ロッティはそれらを初めて見たような気持ちにさせられた。すれ違う人々の中にも、何人か見覚えのある顔ぶれがあり、たまに挨拶され会釈するも、地に足がついていないような不確かな感覚にロッティはどうしても心が落ち着かなかった。
準備するにも何をすればいいのか途方に暮れていたロッティは、店に入っても何も買わずにすぐに出たり、港に足を運んで海を眺めてみたりしていた。幸か不幸か、街をいたずらに巡っている最中に『ルミエール』の皆にも『シャイン』の人たちにも出会うことはなかった。
昼過ぎになり、ロッティは講堂の前にたどり着いていた。外からでは講堂の中の様子など聞こえてこず、そのためどんな風に委員会の人間が働いているのかは分からなかった。講堂の前の大きな樹に寄りかかっていると、講堂で働いている人など幻想であるかのように、嘘みたいな静寂がその場を支配した。その樹の下から見渡せる街の眺めも、誰一人生活していないかのように、静かだった。何だか怖くなって、その場から一刻も早く離れたくなったロッティは、仮住まいの家に戻ることにした。
仮住まいの家では、フルールが昨日と同じようにテーブルの席にぽつんと座っていた。ロッティもフルールの向かいに座るが、フルールはロッティが帰って来たことに気がついていないのか、感情の籠っていない瞳でじっと虚空を見つめているばかりで、ロッティも同じようにぼうっと部屋のどこかを眺めることしか出来なかった。
ふと、食器棚にガーネットが愛用している紅茶用のカップが置かれているのが目に入った。それから玉突きのような連想が続いて、昨晩のガーネットの言葉を思い出す。もし本当にガーネットの推測通り、ブルーメルがフルールを想って遠ざけるのだとしたら、そしてフルールがその想いを後からでも受け止めることが出来たのなら、その一連の流れの中にはきっと自分が手に入れられなかった何かがあるような気がした。今は亡き養親を思い出してしまい、ロッティは自分の女々しさと弱さにうんざりしながら、天井を仰ぐ。
「ロッティ様……大丈夫、でしょうか」
気がつけば疲れ切った顔でフルールがロッティのことを見つめていた。本当にロッティのことに気がついていなかったかのように、ちょっとやつれたような雰囲気がある以外はいつものフルールがそこにはいた。
「どうかなさいましたか? どこか具合でも」
「何でもない。何でもないから、気にしないでくれ」
ロッティは恥ずかしくなって慌てて顔を覆った。しばらくそうして、顔の熱が引いていくのを感じてから、顔を覆っていた手をそっと降ろすと、フルールはすっかり心配するような眼差しでロッティを見つめていた。
「俺のことは良い。それより……フルールはこれからしばらく、ここでどう過ごすんだ」
初めはロッティを気にかけていたのか躊躇いがちではあったが、自分のことを訊かれることは予想していたのか、フルールは小さく頷いた。