第2話
文字数 3,403文字
フルールはその場で俯いた。ハルトからは表情が見えないがあまり良いものではないだろう。ハルトはフルールがそのまま飛び込んでしまうような気がして思わずフルールの手を取っていた。振り返ったフルールは驚きに満ちた表情で、ハルトの手と顔を交互に見た。
「それは、何もおかしいことじゃない」
ハルトは、戸惑うフルールにどこか既視感を覚え、慎重に言葉を選んでいった。
「それは、フルールがそれほどブルーメルさんを想っていたっていう証なんだ。そして、ブルーメルさんが最期までフルールの今後を心配していたのなら……フルールも、ブルーメルさんのことが大事だったなら、そのブルーメルさんの願いに応えるべきだ」
ハルトが掴んだ手はわずかに震えていた。フルールは苦虫をかみつぶしたように顔を歪ませ、手紙に皺が寄るほど胸を強く押さえていた。
ハルトは、フルールがこのまま泣くものだと思った。しかし、肩を震わせ続けるフルールはまるで涙を堪えるかのように胸を強く押さえるだけでじっとしていた。
どれだけの時間が経ったであろう、とても長い時間が過ぎたと思う頃になってようやく力を緩め、手紙を落としながらフルールは少しだけ天を仰いだ。相変わらず苦しそうではあったが何かを悟ったように瞳は透き通っていた。
「これが……感情、というやつなのですね」
まるでそのまま天に昇って消えてしまいそうな声でフルールは呟いた。ハルトにはその言葉の意味するところが何なのかは分からなかったが、フルールの心配はもういらないだろうと判断し、ふと握る手の力を緩める。
フルールはハルトの手をゆっくりと退けて、丁寧な手つきで皺だらけになった手紙を拾い上げるともう一度だけ呟いた。
「でも、出来ることなら……手紙じゃなくて、貴方の口から……」
まるで手紙の中にブルーメルがいるかのように、フルールは慈しむような眼差しで手紙を撫でた。その短い言葉にどれだけの意味が込められているのだろうかとハルトは想像し、フルールが落ち着くのを見守った。
しばらくして、フルールはようやくいつもの表情に戻り、手紙をスカートのポケットにしまうとハルトにお辞儀した。
「お見苦しいところをお見せしました」
そのフルールの所作はハルトも見慣れた、愚かしいほどに丁寧な動作であった。まだ多少の懸念はあったがハルトもようやくほっと一息つく。
「もう、大丈夫そうだな」
「はい、申し訳ございませんでした。そして、ありがとうございます」
フルールは再び礼をしたので、ハルトは慌ててそれを止める。再び顔を上げたときのフルールの表情は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「それで、なんでこの辺は放置されてるんだ? 一応何かやれることがないか来てみたんだが……」
ハルトは辺りを見渡す。委員会の指示通りなのか先程からフルール以外に来ている人はおらず、普段は船が出入りして賑やかだった場所が嘘のように今は閑散としていた。
フルールは思い至ることがあるようで、納得したように頷いてみせた。
「実は、ブルーメル様が生前に遺した手紙にそう指示されていたのです」
「えっ……そう、なのか」
「はい。ブルーメル様が遺した手紙が、私宛てのもの以外に委員会宛てのものがありました。その委員会に宛てられた手紙には、ブルーメル様がご自身の亡くなられた後についての指示が、事細やかに書かれていた……ようです。私に宛てられた手紙にはそう書かれていました」
フルールは淡々と説明したが、ハルトはその説明に違和感を覚えた。
「なんか、それって……まるでブルーメルは……」
「はい」
ハルトが言い淀み、躊躇いがちに最後まで言えなかった言葉をフルールが引き継いだ。
「ブルーメル様は、最初からご自身が亡くなられるつもりでいたみたいです」
予想通りの答えが示されても、ハルトは理解が追いつかなかった。しかしフルールは、先ほどのハルトとのやり取りで何かが吹っ切れたのか、取り乱すこともなく優しく微笑んでみせた。フルールが「街の方へ戻りながら話しましょう」と言い、押しやられるようにしてハルトも港から離れていく。
「あの人にはいつも困らされてばかりです。私も委員の皆様も振り回されてばかり……それでもブルーメル様の指摘はいつでも冴えた物ばかりでした。だから私たちは今回も、ブルーメル様の指示が正しいと信じて動いていられるのです」
フルールの芯の通った声がハルトの耳に綺麗に届く。淀みのない口調にハルトは羨ましさすら感じていた。
フルールに押されるようにして歩いていると徐々に街の喧騒が聞こえ始めた。
「フルールは、ブルーメルさんをとことん信じているんだな」
「ハルト様のおかげです。私が……あの方の傍にずっと仕えていたのはこの私なのですから、そうやって自信を持つことが出来ました。そして、それをハルト様のおかげで気づくことが出来ました。本当にありがとうございます」
「礼はもういいって……俺は……」
そこでハルトは口を噤んでしまった。ブルーメルとの関係を懐かしむように語るフルールの話で、ハルトはロッティのことを思い出していた。ハルトとロッティの関係を知っているフルールもハルトの様子から口を噤ませた理由を察したように躊躇いがちに口を開いた。
「ハルト様は……私を恨んでいますか?」
「ん……なんでそんなことを言うんだ」
「私が助かっている間に、ロッティ様はあの爆発に巻き込まれてしまいました。責任は私にあります」
「いや、そんなことはないって。それに……俺は、生きているって信じてる」
再び律儀に礼をしようとするフルールを制止して街の広場へと向かう。街の人間はこんな非常事態にも慌てておらず、忙しそうだが迷いのない動きでそこかしこへ移動していた。通り過ぎる人々をハルトはどこか上の空で眺めていた。
「ロッティは、こんなことじゃあ死なない。あいつの強さは、俺たちが一番よく知っている」
木材を抱えて走っている人がすれ違っていく際、木材がハルトに当たりそうになり、ハルトはすんでのところで避ける。遠目に広場が見えてきて、賑わっている様子が一層よく聞こえてきた。
「はい、私もロッティ様は生きていると信じています。ブルーメル様も、手紙でそう遺してありました」
「じゃあ、責任を感じる必要はないだろ。いや、それはそれでどうなんだろう」
「……? 私はロッティ様が亡くなられたとは考えていませんが、これでハルト様はロッティ様と離ればなれになってしまったではないですか。私はそのことを詫びていたつもりです。ロッティ様も……ハルト様たち『ルミエール』の皆様を気にしていらっしゃいました」
何でもないことのように話すフルールの言葉に、ハルトは思わず足を止める。即座に気がついたフルールが、わざわざ自身も足を止めてハルトの方を振り返る。
「何か気に障ることを言ってしまったでしょうか?」
「いや、そんなことないぞ」
ハルトが即座に否定してみせると、フルールは表情を和らげるかに見えたが、それも一瞬のことで、再び港跡で見せたような悲哀の色に染まった表情へと戻った。
「それなら良いのですが……大切な人と離れる痛みが私も……私にも、ようやく分かりましたから。ハルト様の辛さも、少しは分かるつもりです」
普通の人間の召使いよりも綺麗で丁寧な佇まいをしたフルールは、スカートの上で重ねられた手をそわそわさせた。ハルトはその手を見つめ、小さく溜息を吐いた。
「……なんだか、これじゃあ俺が励まされちゃってるな。フルールの方がよっぽど辛いのに」
「だからこそ、ではないでしょうか」
フルールは得意そうにはにかんだ。フルールの仕草にハルトもつられて笑みをこぼした。ハルトも可笑しくなって、つい笑みがこぼれた。
道中、重い荷物に悲鳴を上げる声が聞こえてきた。フルールはハルトに一度頭を下げると、もうすっかりいつもの調子で、早速悲鳴を上げた主の方に向かって行った。その背中を見守りながら、ブルーメルがいない以外は以前と変わらないシリウスが戻ってきたとハルトは安心していた。台風が去った後のような静けさと爽やかさが街を包んでいた。