第5話
文字数 3,419文字
ロッティの記憶では宿である、その建物から出てくる人影があった。その人影を見て、ロッティは今度こそ驚きを隠せなかった。
『ありがとうねガーネットちゃん。それにしてももう行っちゃうんだねえ。一晩泊まっていけば良いじゃないか』
『ありがとうございます。でも、もう行かなくちゃいけないので』
『そうなんだねえ……気をつけていってらっしゃいな! また家に来るんだよ!』
『ええ、また訪れます』
ガーネットと呼ばれた女の子は、ロッティの知るガーネットよりもずっと明るく、はきはきと話していた。ガーネットと話していた宿のおばさんは、ロッティの知る人の面影はあるものの、何かが違っているように思えた。ガーネットは笑顔を浮かべたままそのお婆さんと別れ、街の出口に向かっていった。出口には馬車が待っており、その馬車には帽子を目元が隠れるぐらい深く被り、黒いコートに身を包んだ男が一人乗っていた。
『もう用事はいいのかい』
『ええ、ありがとうございます。それでは、貴方の仰ってた所へ行きましょう』
自分の全く知らない顔を見せるガーネットは屈託のない笑顔をその男に向け、馬車が静かに走り出した。複雑な気持ちになりながらも状況を整理しようとすると、再び視界は青白くなった。
次に映ったのは、ガーネットが涙を流しながら街の中を走り去っていくところだった。廃墟が少なからず並ぶその街に、ロッティは見覚えがなかった。ガーネットは建物の陰に隠れながら道を行く人間の様子を伺っている。遅れて、男の集団がやってきた。そのうちの一人は、帽子こそ被っていないものの、その黒いコートですぐに先ほどの男であると分かった。
『おい! あいつ、どこに行きやがった』
『分からねえ。とにかく早いところ見つけないと、俺たちがボスに怒られちまう』
男たちはガーネットのいるところとは逆方向に向かっていった。ガーネットはそんな男たちの姿が見えなくなるまで身を隠した後、慎重な足取りで街の外へ向かっていき、馬車を捕まえて帝都を目指すように馭者に鬼気迫る勢いで頼んでいた。馬車の荷台の中で、ガーネットは小さく縮こまり、表情を歪めながら嗚咽を押し殺していた。
『やっぱり、本当だった……あの夢も、あのとき聞こえたことも、全部本当なんだ……』
小さく聞こえた呟きは、とても痛々しかった。ロッティは震えるその手に自分の手を重ねた。ガーネットはやはりロッティに気がつかないまま、俯き続けていた。それでもロッティは、手の震えがなくなることを祈って手を重ね続けた。
そして、何度目かの青白い光が再び訪れた。
ガーネットはベッドに横たわる老婆に寄り添っていた。ガーネットの容姿はもうすっかりロッティの知る物になっていた。ガーネットは老婆の皺だらけの手を握りしめ、今にも泣きだしそうな顔でその女性の寝顔を見つめていた。
『ガーネットちゃん、もう、いいんだよ』
『……まだ、私は貴方に何も、返せてない』
『そんなこと、いつまで気にしてんだい……もう、いいんだよ。孫が出来たみたいで、アタシは楽しかった。それだけで十分さ。最初は、娘みたいだと思っていたんだがね』
老婆は、焦点の合わない瞳で天井を見上げた。一瞬しんと部屋の中が静まり返り、それによって聞こえてきた窓を鳴らす音の正体が吹雪によるものだと気がつき、ようやくフラネージュと思わしき街での出来事だと把握した。
『娘だと、思ってたのに……歳を取ると、自分が老いるのも早く感じるもんだねえ……』
老婆は最後に『ありがとうね』とだけ言って、静かに瞳を閉じた。力なく垂れる手を、ガーネットは握り直せなかった。しばらく老婆の寝顔を線をなぞるように撫で、その後自分の顔をペタペタと触ったかと思うと、途端にガーネットは自分の体を抱きしめその場で蹲った。
『私の体は……どこまで普通じゃないのよ……』
切実に、苦しそうにそう吐き出しながら震えるガーネットの背中にロッティは駆け寄ってやれず、黙って見つめることしか出来なかった。
その後も何度か視界が切り替わり、様々な場面を見ていくが、ガーネットの容姿は老婆を看取ったときから大きく変わることはなかった。やがてガーネットの顔から、色が抜け落ちていくように表情がなくなっていき、初めて会ったときのような何にも関心がなさそうな無表情へとなっていった。改めてその無表情なガーネットを見ると、ここ最近のガーネットは分かりやすいぐらい感情を表に出すようになったんだなと、ロッティはそのことに気づかされた。やがてガーネットは赤くなる瞳をコンタクトで隠し、相手の思考を読み取ったように相手の誘いを躱していたり、上手く取引をして生活費を稼いでいた。途中で、護衛か自衛のためであろうか、銃や弓矢を練習している場面も見ることになった。それでも、自分の本当の名前すら忘れてしまったガーネットがそれ以降、誰かと一緒に日々を過ごすことはなかった。
ずっと独りで生きている日々が続いた、そんなあるときだった。その街は、かつて孤児だったロッティを引き取ってくれた街でのことだった。ガーネットは宿のベッドに眠りながら涙を流していた。
『ろっ……てぃ……ろ……』
うわ言のように、ガーネットはロッティの名を繰り返していた。苦悶する表情を見て、ロッティと出会う予知夢を見ているのだと気がついた。
やがて何も言わなくなったかと思うと、ガーネットはばっと急に飛び起き、驚いたように頬を伝う涙に触れる。その涙を確かめるように目の前に持ってくると、そのままその涙を掌に握りしめた。
『ロッティ……貴方との日々が、やがて世界の運命を決めるのね……』
ガーネットはそのまま起床すると、顔を洗い鏡の中の自分を見つめた。無色のキャンバスにインクを垂らしたように、ガーネットの顔にそっと感情が灯り始めた。
『私は死ぬ……でも、それはもういいの。ロッティ……貴方の生きる世界を、決して壊させない』
その言葉には、明らかにこれまで積み上げられてきた諦めが滲み出ていた。それでも、渇ききった砂漠のように人間味のなくなったガーネットに、確かな変化が現れていた。
『この世界に……私たちとは違う人たちしかいない世界に、私はどうしても近づけなかった……でも、私が信じられなくても、未来の貴方が信じるというのなら、私は、貴方の人生を助けたい。命に代えても貴方の未来を壊させないから。私の分まで、生きて』
最後の言葉がひどく反響している。それを最後に、急に視界がぐにゃりと歪み、どこかへ吸い込まれていくようにガーネットの姿が世界ごと遠くなっていく。それでも最後の言葉はいつまでも反響し続け、そのアンバランスさに次第に頭が痛くなり始めた。
次の瞬間、視界は再度青白い光に包まれた。
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「……っ!」
気がつけばロッティはガーネットを抱きしめていた。一瞬戸惑ったが、辺りが崩壊した帝都跡の風景が広がっているのを確認でき、ようやく現実に戻ってこられたのだと気がついた。
「ロッティ、大丈夫か?」
振り返るとハルトが心配そうな顔でロッティとロッティの手元を交互に見ていた。
「いきなりお前の指、かな?が光り始めて、ロッティのこと見えなくなってたんだ。大丈夫なのか?」
ガーネットの長い孤独な時間を覗き見ていたからなのか、ハルトのその心配性な素振りもひどく懐かしいもののように感じられた。ロッティはぼんやりとした頭で「ああ、大丈夫だ」と答え、ガーネットのことを改めて見る。
ガーネットは依然として、ロッティの腕の中で静かに眠っているようだった。その寝顔は、先ほどまでロッティが見てきたガーネットの姿とは程遠い、すっかり気を許したような緩んだ顔をしていた。そこにはもう、先ほどロッティが覗き見た悲しい決意はなかった。ロッティは再びガーネットのことを抱きしめた。ガーネットが生きている証である温もりを、いつまでも感じていたかった。しかし、ロッティは早く決断しなければならないことを理解していた。どうして急にガーネットの過去が見えたのかも、深くは考えないことにし、名残惜しい想いで、ガーネットをジルに再び預けた。