第5話
文字数 3,536文字
「貴方は、本当の意味では逃げてなんかいない」
その声は、今まで聞いてきたどの声よりも優しい声音だった。ふと海風が強く吹いて、ガーネットが髪を押さえる。落ち着いたその仕草からは、ガーネットがこれまで潜ませていたロッティへの信頼が表れていると、それが分かるようにロッティに示してくれているのだと、ロッティは感じ取った。
再びガーネットはロッティの手を握った。その手はやはりわずかに震えていたが、それでも温もりは確かに伝わってきて、その温もりが心の中でずっと凍りついていた何かを溶かし始めていた。
「貴方が『ルミエール』の人間から受け取った剣を捨てなかったのも、『ルミエール』の友達がやっていた日記を真似して続けているのも、幼い頃の友達を今でも大切に忘れないでいるのも……トムやシャルルの想いを知ろうとしていたのも、ブルーメルを亡くしたフルールを心配しているのも、そして、私を純粋に理解しようとしたのも……きっと、貴方自身のためなんて理由じゃない。貴方はきっと、どれだけ違いを感じていても、それでもなお理解しようとしたかったから……私は、そう信じてる」
ガーネットは、傷ついた表情のまま、ニィっと歯を見せて無理やり笑みを作ろうとした。その笑みは不器用でぎこちなかったが、それでもロッティは美しいと感じた。
ガーネットの言葉を頭の中で反芻させ、それらの理由を実際に自分自身に問いただしてみても、明確な答えは返ってこなかった。それらの行動の理由が、本当にガーネットの言う通りなのかははっきりしなかった。それでも、ガーネットはそれを信じると言った。ガーネットの手の平から伝わる熱が、嘘偽りのない言葉が、自分の心の中の何かを崩しているのを確かに感じていた。
ロッティもガーネットの手を握り返す。漠然とした大きな不安は残ったままであるけれど、少なくとも、これまでのことから自分の本当の心のことは信じられなくても、ガーネットのことは信じられると確信していた。震えをおくびも隠そうともせずに向き合ってくれたガーネットの勇気に、応えないわけにはいけなかった。
ふいに握り返されたことに驚いたのか、ガーネットはくすくすと笑っていた。
「ふふっ……ほら、そうやって貴方は私に歩み寄ろうとしてくれている。そう思える人間こそが、きっとこの世界を変えうる人間なのよ。相手に求める所からではなく、相手を受け入れようとする所から始められる人間が、溝がすっかり深くなってばらばらになってしまったこの世界には必要なのよ」
「……言っておくが、俺にはそんな自信ないぞ。ガーネットがそう言ってくれるから、それに乗っかるだけだ」
「今はまだ、それで十分よ。それに私も……変われていないから」
ガーネットは手を離し、老人の横を通り過ぎてゆっくりと崖の方へと歩いて行く。眩しそうに手を添えながら水平線上を一眸している。とてもこの水平線の先に嵐の吹き荒れる海域があるとは思えないほど、目の前の海は穏やかな波音を立てている。
「私も、怖いの。こんな能力があっても、私にはその人がどんな人かなんて分からなかった。何を考えていてどんな感情を抱いているのかが分かっても、どうしてそう考えたりそんな感情を抱くのかまでは分からないから。そんな目には見えない不確かなものを頼りに誰かを信じることが、こんなにも怖いことなんて想像していなかった。何を考えているのかを知っても、その人のことを知ることは出来ないんだって、貴方と旅をしてきて、能力を介さなくても貴方の人となりを知ることが出来たことで、ようやく気がついたから」
ガーネットはぐっと生唾を呑み込んで再びロッティの方を振り向いた。
「私、変わりたいの。未来を変えるつもりでしかいなくて、自分はずっと変われないと勝手に決め込んでいたけれど、貴方に会えて変わりたいと思えたの。世界の未来のことよりもまず、貴方のように誰かを受け入れようとする人間になりたいの。生まれ持った能力を呪って、その能力に惑わされて、それで結局誰も寄せ付けられなくなるような……そんな孤独には、何も意味がないから……」
ガーネットはそっと手をロッティに伸ばした。握手を求めるその手は、ミスティカ族なんて関係なく、普通の人間の少女となんら変わらない綺麗な手だった。
「私も、誰かに歩み寄れる人間になりたい。そして、貴方のことを信じられたのと同じように、怖がらずにこの世界の人のことも信じられるようになりたい……改めて、これからも私と一緒に、旅をして欲しい、です」
ロッティは、初めてガーネットと旅立った日のことを思い出していた。あのときは伸ばそうとしても決し届かないような気がした手だったが、今その手が、伸ばせばすぐに届く距離にあった。ロッティはこの日を待ち望んでいたようにも、まだまだ旅は始まったばかりのようにも思えた。
ロッティも恐る恐る手を伸ばし、ゆっくりとガーネットの手を取った。その柔らかな手は、今にも壊れてしまいそうなほど小さかった。
「俺も変わりたい。どんな風になりたいとか、まだ何も分からないけど……もう誰かといても孤独を感じたり、苦しみながら生きたりするのは嫌なんだ」
ロッティはこれまで誰にも、ハルトにも言えなかった切なる願いを初めて口にした。日記に綴ってきたような内容を実際に口にするのは少しこそばゆかったが、ロッティはガーネットに対してはきちんと言葉にして伝えようと決意した。
その返事を聞いたガーネットは、無邪気に笑った。その笑みは、やっと肩の荷が下りたように柔らかい、心からのものだった。昇り始めた朝日はガーネットを照らし、陰になるが、それでもガーネットの表情はよく見えた。
ガーネットは老人の方を振り向く。
「お待たせしたね。Sさん」
「エス……さん?」
「まったくだ」
エスと呼ばれた老人は乱暴に自分の服の裾を払って、忌々しそうに立ち上がった。
「お前さんたちが結託したところで、世界がすぐに変わるわけではない。むしろ、お前さんたちもここの大陸の人間に歓迎されないどころか、助けようとしている人間たちに追われ、法によって無理やりにでも罰せられる側の存在だ。それでも、お前さんたちはそんな人間の味方をするのか?」
エスは試すように鋭い目でロッティを射抜く。口を噤んだロッティの代わりにガーネットが応える。
「ロッティはこの先必ずその答えを出す。しっかりと選んでくれる。その選択が、きっとこの長年の遺恨をも清算してくれると私は信じている」
「……そうじゃな、迷っている今のこやつには、そんな決断はまだ下せんか」
ロッティ自身に訊かれたことなのにロッティを抜きにして勝手に会話が進んでいくことにロッティは少しばかり不満を感じたが、エスの言う通り、こんな話を聞いたばかりでは情報を整理することすらままならなかった。
エスは険しい顔をふと緩ませた。孫を見るようなその目つきは、まるでロッティの未来を夢想し心配しているようであった。
「じゃあ、まあ……後のことは任せた。わしはPの待っている天国から迎えが来るのをここで待っているからのう」
「ぴー……?」
随分と不思議な名前をする人たちだなとロッティが訝しんでいると、エスは複雑な顔になり、ゆっくりと近づいてきて肩を叩く。
「Pは……お主を一番最初に拾ってくれた男のことだ。その様子では、どうやら本名を名乗っていたらしいが」
初めは何のことを言っているか全くわからなかった。しかし、エフの言った言葉を反芻しているうちに、ふとピリスの姿が脳裏に呼び起こされた。もしやと思いもう一度エスの言葉を頭の中で復唱し、そして、エスの言う自分を拾ってくれた男とやらに当てはまる人物はピリスしかいないと確信した。途端に足元から綺麗に崩れ落ち、身体が痛むのも厭わずにその場でへたりこんでしまった。不思議なほど力の入らなくなった体で、ロッティはひたすらにピリスを想った。
自分の人生がピリスによって始まったこと、幸せを探すようにと別れ際にそんな言葉を遺してくれたこと、そしてそれらの背後に隠れていたピリスの想い、今更ながらにそれらの意味を知った自分の愚鈍さに、ロッティはその場で涙を流し続けた。自分でもよくみっともなく泣き叫ばなかったなと思うほど、ただひたすらに溢れ出てくる涙を止めることが出来なかった。その涙と共に、ピリスや、自分を育ててくれた養親に対して引き摺っていた想いまでもが洗われていく感覚がした。