第6話
文字数 2,997文字
上昇し続ける湿気のせいで街の空気はどこかどんよりと重苦しく沈んでいた。傘を忘れて立ち往生する何人かの若者たちは、忌々しげに空を見上げて睨んでいた。そんな若者たちを尻目にロッティはセリアとブルーノと一緒に学び舎からの帰り道を歩いていた。セリアの高そうな靴が石畳の地面を踏む度にぴちゃぴちゃと水の跳ねる音が雨の音に混じった。
「はあ。雨って嫌よね、ホントに。外で遊べないじゃない」
「今日は大人しく家に帰るしかないね」
「だったら誰かの家で遊びましょうよ!」
「僕はちょっと頭痛いや、少し昼寝したい」
「まだワカモノのうちからそんなんじゃダメよ! つれないわね」
欠伸を堪え頭を抱えるロッティに、セリアは口をとがらせ不満そうに頬を膨らませた。セリアの横を歩くブルーノは静かに優しく微笑んでいた。
幾ばくかの月日が流れたセリアの顔つきは、あどけなさが薄れ、徐々に女性へと変身する予感を覗かせているが、その予感に反して長髪をやめてボーイッシュなショートカットにしていた。服装もワンピースやスカートといった服を着ることが少なくなり、丈の長いズボンを履くことが多くなった。別に特段重い理由があってではないだろうとは思いつつも、ロッティはそれとなく髪を短くした理由を尋ねたことがあったが、「髪長いと遊ぶときに鬱陶しいじゃない」という、やはりセリアらしい至極単純な理由を明かしてくれた。それに対してブルーノが「髪せっかく長くしてたのにもったいなくない?」と漏らしたのを聞いて、セリアは「ああ、うん、そ、そう?」としどろもどろになりながら曖昧に返事していたが、結局今日に至るまで依然として長くする気配はない。なんだかんだ自分でも気に入ったのか、それとも単なる癖なのか、セリアは短くなった自分の髪先を弄りながら、地面に当たって弾ける雨粒を睨んでいた。
「それじゃあ、また明明後日ねロッティ」
「バイバイ、ロッティ」
しばらく歩いたところで分かれ道に差し掛かり、ロッティは二人と別れた。ロッティと別れた後も、少なくともセリアはエネルギーを持て余しているようで、手にしている傘が左右にゆらゆらと揺れ、静かにまっすぐ構えられたブルーノの傘に甘えるように時折ぶつかっていた。
一人で雨水を跳ねさせながら帰っていると、思い出したかのようにしっとりとした雨の匂いがした。その雨の匂いに紛れて、仄かに甘ったるい菓子の匂いやらパンの匂いもどこからか漂ってきた。外に出て呼び込みをしている人は少なく、店の者の多くがガラス戸の奥から街の様子をぼんやりと眺めているだけであった。ガラス戸に当たった雨粒は、地面に落ちたのと同じように弾けたり、筋となってガラス戸を伝って流れていったりした。
北上していくうちにやがて食べ物の匂いもガラス戸越しのねっとりとした視線も減っていき、空気がしんとなり始める頃には自分の家が見えてきた。ロッティは「ただいまー」と言いながら家の玄関を開け、「お帰りなさい」という母親の声を聞きながら自分の部屋に戻る。ロッティは鞄を置いて胡坐をかいた。その鞄をじっと見つめて、手を触れずに宙にゆっくりと『浮かばせて』みせた。そして、その浮かんだ鞄をゆっくりとそのまま下ろした。次に、早く浮かばせて、早く下ろす。浮かばせてから静止させて、それから下ろす。また浮かばせて、今度は円を描くように動かして、何周かしたらすぐに下ろす。今日もいつもと変わらず動かせることを確認して、ロッティはほっとする。
ロッティはこういった練習をかれこれ一年以上続けていた。恐らく自分にしかないこの能力と向き合い、得体のしれない能力として恐れるのではなく、しっかりと自分の物として支配下に置くために、ロッティはこの能力の扱いに慣れようとしていた。練習を続けていくうちに、初めは風船やペンといった軽い物しか動かせなかったのが、徐々に重い物も動かせるようになっていき、一番重い物では海に沈んだ岩も動かせるようになった。この能力を扱っている間、ロッティは不思議な浮遊感に包まれた。物を動かそうとすると、目に見えない何かが自分の身体を覆いながら伸びていき、その物体を捉える。その物体の重さに応じて、その目に見えない何かを通じて自分の中にあるエネルギーのようなものが流れていき、その物体を動かそうとする。練習を重ねていくうちに、そのエネルギーの流れもスムーズになっていき、より速く、より重いものを動かせるようになっていった。
この能力のことは未だに誰にも話していなかった。それでも、自分でも怖いと感じるこの能力をいつか自分の物として支配できたと感じられるときが来たならば、両親やセリアたちに打ち明けようとロッティは決めていた。
「ロッティ-。買い物に行ってくるから留守番任せたわよー」
自分の能力の訓練に夢中になっていたロッティは母親の呼ぶ声で我に返り、鞄を空中にぴたりと留めて、「はーい」と扉越しに叫んだ。その後しばらくして母親は出かけていき、ロッティはその間も鞄を動かし続けていた。
しばらく練習しているうちにわずかに感じていた頭痛が酷くなってきたような気がした。窓ガラスに淡々と打ち付ける雨の音は眠りを誘っているかのように静かに優しく響いた。ロッティはうとうとし始めた。何となくベッドに横になるって目を瞑ると、雨の音に包まれたような感じになる。ロッティ以外誰もいないために家が静かだったこともあいまって、ロッティはその音に包まれながらあっという間に寝息を立て始めた。
短い夢を見た。夢の中でピリスが出てきた。
川を挟んで遠く向こうに佇んでいるピリスは、記憶の中の思い出と寸分違わぬ笑顔でロッティに向かって手を振り続けていた。久しく見なかったその顔にロッティは胸の中で溢れ返りそうになる静かな興奮を抑えきれずに、その笑顔の下に駆けつけようとしたが、何故か鉛玉が鎖で繋がれたように足が重く、動かすことが出来なかった。頑なにぴくりとも動かない足を見限り、今度は精一杯に手を伸ばしてもまるで届く気配はなく、むしろピリスとの距離の遠さを肌身に感じるだけであった。
為す術も無くただじっと訴えかけるようにそちらを向いていると、次第にピリスの姿に霞がかかってきた。輪郭もぼやけ始め、まるで白い幻であったかのように目の前から消えてしまいそうだった。慌てて叫ぼうとしても声が出なかった。思い通りにいかない体に苛つきながらも、ロッティはピリスに感謝とも再会の喜びともつかない切実な想いを伝えようと必死だった。しかし、その努力も甲斐なく、ついに伝えたい言葉を何一つ伝えられないまま、ピリスは白い霞に紛れて姿を消した。
ロッティは泣かなかった。しかしピリスとの再会によって湧き上がってきた想いのやり場を失い、ただただ困惑し、ピリスが消えていった霞の方向を途方に暮れたように見つめていた。見つめても白い靄は返事をしてくれず、次第に足場から世界が崩れ始め、視界すらあやふやになってきた。
再び意識がどこかに手放されそうになる彼方で、ロッティは、大きくなり新しい所でも上手くやっていけてる自分の姿をピリスに見て欲しいと強く願った。きっとまた会える、そう信じて再び意識は流れる。