第17話
文字数 3,225文字
「ロッティ、そろそろ行こう?」
アリスが本を片手に持って扉の前でロッティを呼ぶ。暇を持て余し天井をぼんやり見上げていたロッティは、その声に呼ばれてさっと立ち上がる。向かいの席で本を読んでいたガーネットが顔も上げずに「いってらっしゃい」と告げる。ロッティたちはその言葉に押されるようにして小屋を出て行った。
アリスは相変わらず弾むような足取りで進んでいく。その様子にはどこも変わったところはなく、いつものように心から下町への訪問を望んでいるような淀みないものだった。ロッティはそんなアリスの様子に尊敬の眼差しを向けていた。時折アリスはバニラにだけでなくロッティにも話題を振るが、ロッティは曖昧にしか答えられず、その返答にアリスも唇を尖らせていた。ロッティ自身も、自分が上の空であることははっきりと自覚していた。
『シャイン』に依頼していた毛布を受け取りに行った日から、ガーネットとの間で気まずい空気が流れていた。普段もロッティとガーネットの間にはあまり会話はなく静かだったが、それは決してかける言葉が見つからないわけではなく、何も言わなくても相手の考えていることが何となく空気を通じて感じられて、穏やかな気持ちでいられる静けさであると少なくともロッティは感じており、ロッティから見てもガーネットも同じようなことを感じていると確信していた。しかし、今では相手との気持ちのすれ違いを互いに認識してしまい、それ故に互いの距離感が掴めないでいる、というような状態であった。ガーネットは相変わらずあまり感情を表に出さないが、それでも、いつの日かのように、ガーネットは赤く変化する瞳をロッティと合わせようとしなくなっていた。
その空気感を、アリスも敏感に感じ取っており、バニラも何も聞かないでいた。
そんな状況で、グランが先日から出かけていた。「ちょっと出かけてくる」と言ったきり何の音沙汰もなく、小屋ではロッティとガーネットの間の沈黙が際立ったように感じられ、ロッティはますます気まずく感じていたが、アリスはそのような影響は受けていないようであった。アリス曰く「グランはときどきそう言って出かけることあるけどすぐ帰ってくるから」と答えけろっとしていた。
しかし、そんなアリスもグランが帰って来たときには態度を急変させた。先日、グランがとうとう帰ってきたは良いものの、ところどころ服がほつれ、表情にも疲労感が滲んでおり、何か大層なことをしてきたのは明白だった。そんなグランにアリスは泣きつくように飛びついた。しかし、泣きそうになるアリスを胸に受け止め、頭を撫でながらもグランの表情にはどこか翳が差し込んでいた。その表情も、アリスが顔を上げると隠すようにどこかへ押しやり笑顔を作っていた。それからもグランは何でもないような顔で過ごしていたが、アリスたちが城へ帰っていくと、途端に疲れを吐き出すかのようにため息を吐きながら気怠げに天井をぼうっと見上げていた。
アリスの下町訪問も終え、その後いつものようにアリスたちも城へ帰っていった。ロッティは居間で水を汲み、アリスが置いていっている料理本を何となく読んでいた。普段ならロッティとはじきやらカードやらを使って遊ぼうとするグランも、テーブルの上に足を乗せて椅子を揺らしながら、帰って来たときと変わらずぼんやりと天井を見上げていた。
「なあ、ロッティ……」
「……なんだ。退屈なら何か一緒にやるか? ここのところ元気ないし、今度はグランも一緒に何か飯を作ってみるか?」
ロッティが茶化そうとしても、グランはそれを無視して未だに天井を見上げているだけであったが、その瞳はわずかに揺れているように見えた。ロッティは静かにグランの話の続きを待った。
「……お前、この間アリスの真似事してたけど、結局あの一回きりだったよな。飽きたのか?」
「いいや。そういうわけじゃない」
「じゃあ、どういうわけなんだ?」
グランはテーブルに乗せている足を降ろし、ゆらゆら振り子のように揺れていた椅子をがたんと鳴らしながら姿勢を正した。明後日の方を見ながらも、その声音には真面目なものが感じられ、ロッティもゆっくりと振り返りながら自分の考えを整理した。
「……俺にもまだ、アリスがどうして自分の理想をあそこまで強く信じられるのかは分からない。でも、アリスがどうして帝都の人たちに対してあそこまで献身的になれるのかは……アリスが見ようとしている世界がどういうものなのかは、俺にもようやく分かった気がする」
グランは相変わらずロッティとは別の方向を見つめたまま、静かにロッティの言葉に耳を傾けていた。
「俺も、変わらないんだ。俺は今まで、俺の苦しみは俺にしか分からないもんだって思っていた。俺が苦しんでいる理由は、誰にも分からないものだって……実際そうかもしれないけど、でも、そうじゃないんだ。俺も、下町の人たちも……アリスやグランも、誰もが、理由や背景は違っていても、同じように苦しんでいるんだ。苦しみの背後にあるものが理解できなくても……苦しんでいることに、違いなんてないんだ」
ロッティは、あの日バナナケーキを下町の人たちに振る舞ったときの光景と、その中に見えた温かな光を思い返していた。
「その感覚が、孤独だと思っていた俺がこの世界で生きるのに必要なものなんだって……俺にはそう思えた。ガーネットの存在が無意識に俺を支えてくれたように、俺が昔ある友達の心を開いてやれたように、下町の人たちにとってのアリスのように……そして、グランがアリスにそうしてやれたように。俺も、アインザーム族だけど、この大陸の人たちと何も変わらない人間なんだって信じたいんだ」
グランは、何も言わなかった。緊張した空気に沈黙が流れる。ガーネットにもこの話は聞こえているのだろうか。そんな雑念を抱きながらロッティは手元のコップに入っている水を飲み干し、それでも渇いているような気がする喉を潤すために、二杯目の水を用意して、それも静かに飲んでいく。
半分ほどに減った水が波打っている。その揺れをぼんやりと見つめながらロッティがコップをテーブルに置くと同時に、グランは先ほどのように椅子をゆらゆらと不安定に揺らし始めた。
「それじゃあロッティは、アイツらとは……リベルハイトとは、決別するってことだな」
「……少なくとも、この世界を壊すことだけは阻止してみせる。でも、俺は別に」
「分かってるよ。言わなくても、分かってるって」
グランは静かにロッティの方を振り向き、ロッティの手元を穏やかな顔つきで眺めていた。憑き物が落ちたような、それまでグランの表情を曇らせていた何かが霧となってどこかへ消えたような印象をロッティは受けた。
「アリスと同じ考えに至ったロッティが、俺たちを見放すはずがないって分かってるさ。俺には……誰よりアリスの傍にいるくせに、その考えには、どうしてもたどり着けなかった……」
ロッティの手元を見つめるグランの視線は途端に憂いを帯び、諦めの感情が詰まったその言葉は胸が痛むほど悲しく響いた。そのグランの表情にロッティは言葉が詰まり、何も言うことが出来なかった。
グランが静かに顔を上げた。
「でもそれも、ガーネットの奴や……他のミスティカ族も、皆がすでに見ていた未来のはずだ。お前が本当に迫られる選択はその先にあるんだ。まだ、運命を変えられたわけじゃねえ」
グランは真面目な表情でそう言うと、すっとガーネットの部屋の方に視線を向けた。
「ガーネット、聞こえてるだろ? 今からロッティとお前に、話したいことがある。こっちに来てくれ」
その言葉に、ガーネットの部屋から物音が聞こえた、ような気がした。そのとき、先ほどまで揺れていたように見えたグランの瞳が、鋭く揺らぎのない確固としたものになっていることに、ロッティは気がついた。その瞳には、アリスのそれにも似た、強い信念を感じさせた。