第9話
文字数 3,189文字
ルミアは溢れる涙を拭おうともせず、無防備に涙を流し続けた。涙は顎を伝いながら、向かい風に流されていった。ふっと上空を見上げ、まるでそこにシャルロッテの姿があるかのように、懐かしむような瞳になっていた。
「あの人は不器用で、だけど好きなように生きて……自分の感情の赴くまま、勝手なことばかり、やってました……でも……貴方の話を聞けて、良かったです。あの人は、貴方の前でも、そんな感じだったのですね。それならきっと、幸せに逝けたのだと思います……僕たちといた日々で、少しでも、あの人を癒すことが、出来たんですね」
ルミアはそこまで話すと、それっきり顔を完全に俯かせ、静かに泣き続けた。カミーユの手を握る力を強めて、それに呼応するかのようにカミーユも涙を激しくさせ、口元を手で覆った。ロッティも二人の泣く姿につられて目頭が熱くなった。シャルロッテも、弟と離れて、独り寂しい想いを過ごしていたばかりではないという安心感が、ロッティの胸を突き動かして止まなかった。ロッティは、心の中でシャルロッテを想った。
「あの人と一緒に過ごしてくれて、ありがとう」
ロッティは二人にお礼を言って、前に振り向き気持ちを切り替えようとした。傍らで二人のすすり泣く声が大きくなっても、ロッティは決して振り返ることなく、前を見据え続け、ノアたちを探しながら舟を漕いだ。
帝都からどれだけ離れただろうか、地上の世界が真下であっという間に流れていく様は相変わらず爽快で、地上から眺めたときとはまた別の感動をもたらした。前から吹き付ける風に息が詰まらないように気を付けながら進む空の旅は、地上では味わえない高揚感があった。非日常的な興奮で、ハルトやクレールが傍らで盛り上がっているのがロッティにも聞いて感じ取れた。
その矢先だった。遥か遠くで狼のような姿が駆けているのがようやく見え始めた。ロッティは徐々に舟を降下させていった。地上近くにまで降り、そのまま滑っていくと、狼のような生き物の上に、誰かが大きな黒い塊を抱えているのが見えた。その狼はそこで立ち止まると、その人物の持っていた黒い塊を口に咥え、そっと、前方に放り投げた。大きな黒い塊の中央は、やはり赤い光が不気味に光っており、明滅を繰り返しながら前方の小さな町へと向かって行った。ロッティは舟を漕ぐ速度を上げ、狼のような生き物の横を通り過ぎていき、その黒い塊にぐっと近づいてそれを『捉えた』。ロッティの能力に捉えられた黒い塊は、不自然に空中に留まると、そのままふわっと上空へと上っていった。
ロッティはそこで一度舟を地上に降ろし、適当に石を拾って看板と共に自分を浮かび上がらせ、その黒い塊の目の前まで上昇した。そして、その黒い塊をさらに高いところまで上昇させてから、ロッティは拾った石をその黒い塊目掛けて投げて、能力で勢いづけた。そのままロッティの乗る看板を急降下させていると、遥か上空で爆発が轟き、熱風をかすかに浴びながら地上に降り立った。舟のところまで戻ると、ちょうど狼のような生き物も地上に降りた舟のところまでやって来たところであった。
目の前に現れた常識外れの大きさの狼に、ロッティが連れてきた何人かが怯んだように悲鳴をあげる。それを意にも介さずに、狼はその人たちを通り過ぎてロッティの方に向かってきた。その背中にちらりとステファニーが見えて、ロッティもその狼がレオンであると把握した。
「ロッティ。やっぱり俺たちの邪魔をするのか」
狼の姿になったレオンが、姿は変われどあの日と変わらぬ声でそう尋ねてきた。背中に乗っているステファニーが険しい顔でロッティのことを睨みつけていた。
「ああ。もうこんなことはやめてくれ。俺は、皆と……レオンたちとも、普通に生きていきたい」
ロッティは恐れを知らないかのように悠然とレオンの方に歩み寄る。そのロッティの姿に、レオンはすべてを悟ったように深いため息を吐いたが、その顔は変わらず凛としたままロッティのことを真っ直ぐに捉えていた。しかし、身体を前のめりに出してきたステファニーは諦めきれないようで、ロッティのことを訴えかけるように見てきた。
「ロッティは私たちみたいに長い年月を生きていないし、レオンたちみたいにいくつもの時代を生きてきたわけでもないじゃない。ロッティの願いだって、届かない。アリスだって……死んじゃったじゃない。ねえ、だから、お願い……」
ステファニーが縋るように、ロッティに手を伸ばしてくる。そのステファニーの勧誘に、レオンの背後から緊張したように息を呑む気配が伝わってきた。実際、かすかに震えるそのステファニーの手を、ロッティは取りたくてしょうがなかった。ステファニーの諦めにも似た気持ちとアリスを失って悲しむ気持ちとが、痛いほどに伝わってきて、ロッティの心に大きく訴えかけていた。
それでもロッティははるかな意思を以て誘惑を跳ね除け、首を静かに横に振った。そのロッティの態度に、ステファニーの表情にありありと絶望の色が滲んできた。
「報われるために生きるわけじゃない。そんな世界に……アリスが望んだ世界にするために、俺たちも歩み寄るんだよ。そんな世界があると信じて、俺たちの方から歩み寄って生きていくことは出来る。だから……」
その後の言葉を飲み込んで、ロッティは手を伸ばしはしなかったが、ステファニーにその言葉を込めた瞳で訴えた。ステファニーの瞳はすっかり赤く変化しており、ロッティのことを狼狽えたように見つめていたが、やがて一つの結論を得たようで、瞳には絶望の色を残したまま、自身を落ち着かせるように胸に手を当てていた。
「そっか……ガーネットさんが、生きてるんだね……それなら、貴方がもう迷わないわけね……」
ステファニーは、今度こそ諦めたように、胸に当てた手を抱き込むようにレオンの上で蹲った。レオンがそっと身体をかがめると、ステファニーはそのままレオンから降りて、ロッティに近づいた。涙ぐんだステファニーの瞳は、ガーネットの瞳とはまた違った印象を与え、ガラス細工のようにキラキラして美しかった。その瞳の奥には、一本の揺らぎのない芯が力強く通っているのを感じさせた。
「これだけは言わせて……ロッティがいくら覚悟しても、どうしようもないことだってあるの。きっと私たちの苦しみが本当の意味で分かる日が来るわ……それでもロッティは、前を向けるの?」
「それでも……自分は人とは違うんだって、勝手に人を遠ざけて孤独を感じながら生きることの方が、きっと辛いはずだ」
「……そう、分かった……」
ステファニーはロッティのことを眩しそうに見つめながら、寂しげにそっと背を向けてレオンの方に戻ろうとした。哀愁漂うステファニーの背中に、ロッティは罪悪感のような想いが芽生えるが、去ろうとしていたステファニーはすぐに慌てた様子でロッティの方へ引き返してきて、子供に言い聞かせる母親のような優しい顔で迫ってきた。
「あと、これも言わせて!……ガーネットさんが生きてて……ロッティがそんな風に決意を固められたことは、私たちにとっても嬉しいこと。けど忘れないで。貴方は孤独を感じてたと言っていたけれど、だからアリスの理想の世界を見るために生きようとするって言っていたけれど……私もヨハンも、レオンもノアも……何よりシャルロッテも、一度たりとも貴方たちを仲間じゃないなんて思ったことはないからね」
ステファニーはそれだけ言うと、ロッティの返事も待たずに、そそくさとレオンの方に戻っていった。ステファニーの言葉が頭の中で反響し、惜別にも似た想いに胸を焦がしながらその背中を見送っていると、レオンの傍らからハルトたちがやって来て、ロッティの側に着いた。