第14話
文字数 3,037文字
梯子を何段も昇っていき、頂上に辿り着くと、赤茶けた街並みが一望できた。吹き抜ける風が強く、攫われそうになびく髪を押さえながら、フルールは愛しそうに街を眺めた。港も、大規模な爆発が起きてから三年経った今となっては、すっかり元通りになり、何隻もの船が停泊していた。その光景が、フルールには少しだけ寂しく感じられた。その船の向こうではカモメが高く鳴きながら、まるで街から退散するように海を渡っていた。今日こそ、その日かもしれない。フルールは、何度見上げたか分からない内陸側の空をもう一度見上げた。
夜明けから完全に覚めたばかりの朝の空は、今日も平和そうに雲を漂わせていた。青空もまだ淡く、これから陽が昇ってくるにつれてその色を濃くさせることを予感させた。普段より間近に迫る青空は、手を伸ばせば雲に届きそうでフルールは手を伸ばしてみる。雲に手を重ね、掴もうとしてみるも、手の平には何も残らなかった。その手の平が、ひどく寂しく感じられた。
「フルールちゃん、俺がやるからフルールちゃんは地下へ避難してくれって」
下から梯子を登りながらルイが呼びかけてきて、フルールは鐘の後ろに下がった。フルールと同じところまで登ってきたルイは、義足を危なげなく動かしながらフルールの方にまで歩み寄ってきた。
「ったく、毎日毎日性懲りもなく登ってきちゃって。良いから俺に任せておけばいいの」
「いいえ、このことについては先日もお話しした通り、私がやるのが一番最適ですから」
ルイの呆れたような言葉に対して、フルールも依然として空を見上げたまま、リボンを弄りながら返す。頑ななフルールの態度に、ルイも深いため息を吐いた。三年前、ルイが義足のためにシリウスに訪れた初めの方はフルールに対して猫なで声で媚びるような話し方で接していたのが、今ではすっかりハルトやロッティに対するのと同じようにくだけた口調になっていた。フルールとしてはそちらの方が好感が持てた。
「フルールちゃんも普通に女の子でしょうが。ここは男の俺の役目だっての」
「……そう仰ってくれることには感謝しています」
フルールはリボンをきゅっと自分の身体に押さえつけながら、視線を落とした。
「ブルーメル様はもちろん、ガーネット様やロッティ様も……委員会の皆様も、ルイ様も、私が
フルールは、胸元をくしゃくしゃに皺が寄るほど強く掴み、身体を俯かせた。ジャックに看てもらっているときの、何とも言えない感覚を思い出し、フルールは胸に何かがつかえたような感覚に表情を歪ませた。しかし、その胸のつかえも飲み込み、フルールはぱっと顔を上げた。
「ですから、この役目は、人間であるルイ様や誰か他の人よりも……私がやった方が合理的だと、どうしても思ってしまうのです」
「……フルールちゃんも、本気でそう思ってるわけじゃないっしょ」
「はい……ですが、皆さまの命を守ることに貢献できるなら、私は本望です」
フルールは無理やりに笑顔を浮かべるが、ルイは哀しそうにその笑顔を見つめ返した。そのままルイは不貞腐れたようにそっぽ向き、フルールと同じように大陸側の空を見上げながらその場に座った。フルールも、何となくルイにつられて座り、スカートの裾を押さえながら空を見上げた。座っただけなのに空が随分と遠くになったように感じられて、フルールは不思議な気持ちがした。街の喧騒もすっかり聞こえず、カモメの鳴き声も聞こえなくなり、風の音だけが二人を包んでいた。視界が自身の髪に遮られ、フルールは再び髪を押さえた。目の前に座るルイの髪は短く、いくら風が強く吹き付けても、ルイはそれを迷惑そうにすることはなかった。それがフルールには少しだけ羨ましく感じた。
「フルールちゃんの言いたいことも分かるけどよ。でも、やっぱりフルールちゃんも普通の女の子だって」
ルイが唐突に、空を見上げたままそう話しかけてきた。咄嗟のことにも、フルールは「そうでしょうか」と曖昧に答えながら話の続きを促した。
「確かにフルールちゃんの感覚は、俺たちには一生分からないかもしれんけどさ。そっちも、こっちがどんな感覚で生きてるかなんて、分かんないっしょ」
「それは……確かに、そうかもしれませんが、それが何なのでしょうか?」
ルイの言っていることと、自身が普通の女の子であることとがどう結びつくのか分からず、フルールは思わずルイの方を見つめる。
「でもさ、フルールちゃんも、こっちからしたら普通の人とおんなじような反応するのよ。ちっと感情表現が乏しいけど、嬉しがってるように見えたり、悲しがってるように見えたり……そういう反応を見ている側としては、俺もフルールちゃんも変わらん人間だって思うわけ」
「はあ……? 何となく分かるような、分からないような……」
ルイの話に、フルールは輪郭の分からない何かを掴んだような不思議な心地になった。フルールの反応に満足したのかどうか分からないような雰囲気で、しばらくするとルイが「まあ」と声を高くして話を切り替えようとした。
「こっちとしては、もうとっくにアインザーム族っていう何だか凄そうな未知の種族の奴を受け入れてるわけだから、今更全身機械の女の子ぐらいどうってことないってこと」
ルイがそれで話はお終いという雰囲気で肩を竦めてみせると、再び空をぼんやりと見上げて黙った。そのルイの様子が、フルールは何だか面白く感じられ、小さく「ふふっ」と笑みを零して、ルイと同じように空を見上げた。
陽も昇り、予想通り青空が濃くなっていき、背中に浴びる陽の光が強く感じられてきた。フルールはもぞもぞと身体を動かし、上手く鐘の影に隠れるように場所を移した。ルイは身じろぎ一つせず、陽の光を背に浴びながらじっと空の彼方を見つめていた。朝とはすっかり雲が入れ替わり、不吉な予感を覚えさせる黒ずんだ雲がまばらに浮かんでいた。今日は特に風が強いようで、その雲は目で見て確認できるほどの速さで、当てもなく流されようとしていた。
ふと、その雲の流れが不自然に中央から離れるように動いた、ようにフルールには見えた。そしてその直後、空の中央にほんの小さな影が現れた。フルールはすぐに立ち上がり、鐘を鳴らす紐に手を掛けた。その影が大きくなるにつれて、身体のどこかで脈打つ何かの鼓動が早くなっていくのをフルールは痛いほど感じた。紐を持つ手がかすかに震え、その身体の変化に、フルールは動揺した。意識が芽生えて以来初めての感覚に、頭がぼうっとしていくのを感じていた。
そのとき、そっと自身の手に雄々しい手が重ねられた。その温かさに、フルールの胸も温かくなり、重苦しく感じていた何かが和らぎ、震えも少しずつ収まってきた。フルールがその手の持ち主を目で辿ると、ルイが不敵に笑っていた。
「フルールちゃん、目良いな。その鐘鳴らすのは任せたから、その後のことは俺にばっちし任せてくれよ。この足もう一回ぶっ壊してでもフルールちゃん助けるからよ」
ルイが優しい眼差しでフルールのことを見つめてきた。その視線がフルールには頼もしく、自然と手に持った紐を掴む力が強くなった。フルールは目を凝らして、空に浮かぶ影をしっかりと見据えた。