第9話
文字数 2,986文字
それまで息を止めていたかのようにぷはーと大きく息を吐き出しながら、ルイがハルトの肩に絡んできた。ハルトとしては鬱陶しくてたまらなかったので引き剥がそうとするが、ルイは中々しぶとく離れようとしない。
「アラン。イグナーツという男について知っていることはないのか」
「ねえな。初めて聞く名だ」
アランはそう言って早速メモ帳らしきものを取り出して、几帳面な字で「洞窟の前でイグナーツ」と書き足した。
肩透かしを食らった『ルミエール』たちは、洞窟の裏側を見て回るのは明日以降にしようという話にまとまり、フラネージュへと帰還してきた。アランは「他にも調べることがあるんでね」とだけ告げてそそくさと街へと消えていった。『ルミエール』もブルーメル暗殺の件も一応兼ねて、情報収集するために各自街を巡ることにした。ハルトも一人で街を歩いていた。
シリウスとは違ってフラネージュは落ち着きのある街で、決して街の人に活気がないというわけではないが、品のある物静かな雰囲気があり、やる気や気力などそういったものを表に出さずに内に秘めて燃やしているような感じがあった。ハルトが聞き込みに尋ねた人も、物腰が柔らかく静かにハルトの質問に懇切丁寧に答えてくれた。しかし、洞窟に生息するという魔物に関する情報はほとんど聞き出せなかった。
その代わり、「子供の悲鳴みたいのは、俺も聞いたなあ」という話を聞けた。
「詳しく聞かせてください」
やっと収穫らしい情報にあたって必死な様子のハルトに、その男性はたじろいだが、ハルトの態度にも引かずゆっくりと息を整えて話してくれた。ふうっと吐いた白い気が寒そうに宙に残り漂う。
「街を出てすぐの川に、友人と一緒に釣りをしに行ったときです。こういう寒い地域の川で釣れる魚は脂が乗っていて美味しいですからね。それでその魚を何匹か釣って、友人とそろそろ一緒に帰るかってなったときに、川の向こうで子供の悲鳴が聞こえてきました」
「そそ、それでっ、どうしたんですか」
「ええ。空耳かと思いましたが、もし本当だったとしたら見過ごすわけにもいかないですし、急いで街に戻って警備隊の人に連絡したんです。でも結局、子供の遺体とか、魔物同士が争った形跡とか、およそ何か事件性のあるものは何もなかったみたいです」
「それっていつ頃でしたか?」
「うーん……二週間ぐらい前かな」
ハルトはその男性に丁寧にお礼を言いながら、その男性と別れて、その情報について考えてみた。
一見、今回の件と全く関係なさそうな情報ではあったが、単純にその男性から聞いた話は謎に満ちていた。子供が悲鳴をあげてから警備隊が駆けつけるまでの間に、子供が自力で、警備隊という、鍛えられた大人の足で捜索しても見つからないほど離れた場所に移動することは不可能であると、ハルトは少なくとも思った。とすれば、警備隊が子供を見つけられなかった理由には、子供以外の何か別の存在が関係しているとしか考えられなかった。しかし、魔物が争った形跡も何の痕跡もなかったという。そこでハルトの想像力の限界は訪れ、子供以外の何か別の存在について見当はつかなかった。
「……皆に聞いてみるか」
クレールやジル、ルイの姿を思い浮かべながら、洞窟まで探索しに行った後で情報収集をして疲れたハルトは、『ルミエール』の泊まった宿に戻ることにした。
部屋にはルイとアベルが何やら木材やら金属の破片やら野草などを手に持って話し合っていた。そして、ジルが二人のやり取りを見守るようにじっと眺めていた。ハルトは何となく二人のやっていることに巻き込まれたら面倒そうだと予感して、その二人を避けるようにして回ってジルのところまで来た。
「……ジル、二人ともなにやってるんだ、これ」
「罠、だって……」
「罠? どうしてまた」
「魔物を洞窟で捕まえるため、らしいよ……」
ジルはかすかに笑みを浮かべながら二人のやり取りを眺めていた。中性的な顔つきをしたジルはあまり感情表現が得意ではなく、ロッティと同じように物静かで口数が少なく、目立とうという意識も薄い。しかし、いつも一歩引いたところで皆のやり取りを眺めているときのジルの表情はとても穏やかで、ロッティと一緒になって静かに見守っていたり、普段よりも声を弾ませてその場から皆に向けて話しかけてくることも多かった。
ジルとアランは同じ孤児院出身らしく、小さい頃から付き合いがあり、初めて会ったときも二人で探偵稼業を行っていた。依頼の関係でアランたちと協力してその依頼をこなし、その依頼も収まったところで、アランがジルを『ルミエール』に任せたいと言ってきたのだった。そのときのジルの顔も真剣な顔つきだったのをよく覚えており、アランの急な思い付きというわけではなさそうだった。人の良過ぎるブラウは、何ら疑問に抱く間もなく二つ返事ですぐにそれを了承し、以後アランともほとんど同じ団体の一員であるかのように接してきていた。
「あれで魔物捕まると、いいね……」
「いやあ、どうなんだろ」
「おーいハルト。お前も手伝えって」
「いや、遠慮しとくよ」
ハルトはジルの横に並んで、二人の苦戦している様子を眺めていた。アベルがトンカチのようなもので叩いて、それが指に当たってルイが悲鳴を上げているのが、なんとも滑稽だった。
アランを除いて『ルミエール』の皆が戻ってきたところで、一度情報収集した結果を報告し合い、それをクレールとジルがまとめ直してくれた。要約すると、今回の情報収集で分かったことは、例の洞窟はクレールの予想が当たっていたのか外れていたのか魔物がいないことや氷光花が咲いているのは最近のことらしいこと、その洞窟で再び魔物らしきおぞましい声を聞いた人は確かにいるが、実際にその姿を見た人はいないこと、そして悲鳴が確かに聞こえるときもあるがその悲鳴の主らしき人の姿も見たことのある人はいない、というものだった。その悲鳴も、主に子供のものが多く、また洞窟以外にも雪原中でも聞くこともあるそうだった。
「結局、アランが調べてくれた以上のことはなかったな。魔物はいったいどうなってるんだ」
アベルが零した愚痴に一同も一様に反応した。クレールだけが椅子に深く腰掛けながら、口元に手を当てて情報をまとめたメモと睨めっこしていた。
「今日のところはこれで調査は終わりだな。各自自由に過ごしてくれ」
ブラウがそう宣言すると、皆めいめいに散った。クレールはジルを呼びつけて「少し考えを整理して推理してみよう」と相談し始めていた。ルイとアベルは意気揚々と罠とやらの作成を再開した。ブラウは、アベルが忙しそうなのを確認すると一人で外に出て行った。ブラウとアベルはよく自由な時間や夜眠る前に一緒に剣の修行をしており、互いに剣の腕を高め合っていた。
ハルトはブラウについていこうか迷ったが、ルイとアベルが「ぎゃー!」と悲鳴を上げながら床に木材で穴を開けそうになっているのを見て、呆れながらもこのまま目を離すのは危なそうだと予感してその二人を監視することにした。テーブルの席に着き、頬杖をついてぼんやりと二人の様子を見守っていると、「暇なら手伝えよ」とルイやアベルに呼びかけられるが、ハルトはそれらを拒否して、欠伸を何度も繰り返しながらルイたちの苦戦する様を見届けていた。