第16話
文字数 3,506文字
「ハルト……」
ルイの小さな呟きは地面に落ちる雪のように消え、イグナーツは、鋭い視線でハルトを見据えながらも続く言葉を静かに待っていた。
「違うところがあるからって、それがなんだよ。イグナーツのその力には、誰かを救う力があるんだってことを俺たちは知ってるんだ。なのにどうして……そんなに苦しそうな顔をするんだ。その力があることで苦しんできたかもしれないけど……それはあんたたちが悪いからじゃない。その力があることで、あんたたちを苦しめてきたその人たちが悪いんだ」
自分でも、何を言っているのか、言いたいことが言えているかは分からなかった。それでもハルトは、素直な気持ちを、この苦しそうにしている人に伝えなくてはいけないと直感していた。同じ理由で苦しんで、同じような想いで自分たちの下を去った人を知っていたハルトは、もうそんなことを繰り返させてはならないという想いでいっぱいだった。
息を切らし、白い息を吐くハルトに、イグナーツが試すような目のままゆっくりと近づき、大きく手を振り上げた。ハルトがそれをじっと見つめていると、イグナーツは少し意外そうに目を見開き、その手をゆっくり降ろし、ハルトの肩に手を置いた。イグナーツの瞳が紺碧色をしていることに今更ながらに気がついた。
「世界のことは信じられないが……お前のその想い、嘘ではないと信じよう」
イグナーツの柔らかい口調に、ハルトは目頭が熱くなってくるのを感じたが、頭と背中に同時に衝撃が走り、前のめりに倒れそうになる。何事かとハルトがムッとして振り返ると、そこには嬉しそうにニヤつくブラウとルイの姿があった。
「よく言った、ハルト」
「さっすが俺たちのハルトだぜ~。かっちょいいー」
ルイが感心したように鼻をこすりながら、ハルトに手を差し伸べる。ハルトがその手を借りて立ち上がっている間に、ブラウがイグナーツに話しかけた。
「というわけだ。言ったろ。俺たちの中に、そんなことを理由に嫌がる人間なんざいないって。改めて頼むが、良かったら知っていることすべて話してくれ」
イグナーツは、静かに目を瞑って、そのまま腕を組みながら俯いた。そのまま時が止まったように動かないイグナーツに、ハルトたちは戸惑ったが、やがてゆっくりとイグナーツが顔を上げると、そこには覚悟を決めたような、それでいてとても切ない雰囲気を持った顔があった。
「言っておくが、時間がない。すべては話せないし二度は言わないから、よく聞くんだ。質問もなしだ」
その後、イグナーツは再び洞窟を行き止まりに向かって歩き始めた。ハルトたちもそれについていくと、イグナーツはゆっくりと語り始めた。
「お前たちは狙われている。俺もその理由は最近知ったんだが、どうやらブラウ、お前はファング・フォレッツの子孫だそうだな」
イグナーツがブラウを振り向く。それにブラウが頷くと、イグナーツも昔を懐かしむように微笑んだ。
「あいつは、面白いやつだったな。そして、誰より心の強い奴だった。俺たちが怖いとか、そんなこと微塵も思っていなさそうだった。そんなフォレッツの家系は皆からの信頼も厚く、ある日、重要な情報まみれの日記をフォレッツ家に託した者がいる。それが……恐らく今もブラウが持っているんじゃないか。今はもう使われていない記号みたいな言語で書かれた書物を。それが、かつてフォレッツ家に託された日記だ」
行き止まりに辿り着き、いつの日かブラウが付けた印が彫られた大きな氷柱にイグナーツはそっと手を置いた。ハルトもつられて何となくその辺の氷柱に手を当ててみると、とても冷たく長い間触れ続けることは出来ず、すぐに手を離した。イグナーツは依然として氷柱に手を触れたまま、額もそっとその氷柱に当てた。
「その日記が、狙われている。お前がフォレッツ家の者だとようやく知った奴らが、お前のその日記を奪おうと躍起になっている。この間、アラン、といったか?の死体をここにおいて、お前たちをここに釘付けにさせて洞窟ごと崩壊させてお前たちを殺そうとした……あいつも、そのうちの一人だ」
その説明は、ほとんどクレールが推察した内容と一致しており、ハルトは驚いたが、それよりも気になったのがイグナーツの話し方だった。イグナーツは、先日洞窟を揺らしたあの生き物を『あいつ』と呼び、『そのうちの一人』であると表現した。その話し方から、イグナーツやロッティと同じ、普通ではない特別な存在であるのだとハルトは解釈した。
「良いか、これが一番重要なことだからよく聞いとけ。お前のその日記は、必ずあいつらの手に渡らせずに、お前たちが読むんだ。そして、この世界の真実と、この先起こりうる未来を自分たちの目で確かめるんだ」
イグナーツは静かに声を張り上げてそこまで話すと、ブラウの印のついた氷柱に背を預けて、やり切ったような清々しい顔でブラウたちを見渡してきた。憑き物が落ちたような、どこかすっきりしたような雰囲気の中に、隠しきれない後悔と悲しみを秘めているイグナーツに、先日の『あいつ』とやらの仕業だろうか、天から光が差し込んできていて、その姿をどこか神々しいものにさせていた。
「ブラウ、お前に最初で最後の頼みがある……俺を、この場で殺して欲しい」
自分を殺して欲しい。そう口にしたイグナーツは、爽やかで、それでいて、もはや生きる気力を感じさせなかった。力なく垂れ下げる腕は、とても先ほど異形の腕を顕現させていたとは思えないほど、頼りなさそうに小さく揺れていた。
流石のブラウも、すぐには頷けなかったが、しかし口を噤ませる間があったかと思うと、ブラウはイグナーツの顔をきりっと見上げた。
「ハルト、ルイ。先に戻ってろ」
ブラウが低く呟いたその言葉にすべてを悟ったハルトとルイは、互いの顔を見合わせながら、静かにブラウとイグナーツに背を向けて、出口を目指して歩き始めた。
ハルトがイグナーツに放った言葉に嘘の感情はもちろんなかった。ハルトはもちろん、イグナーツが死ぬことを阻止したいと考えていた。しかし、ルイと共にその空間から去り、暗闇が続く道に入るその瞬間まで、ついぞそう口にすることは出来なかった。それが、語られた話の内容とイグナーツの見せた覚悟が原因なのかはハルトにも分からなかったが、そういう感情を持つことすら無粋であるような気がしてならなかった。血が滲むほど拳を握り、血の味がするほど歯を食いしばりながら、真っ暗なトンネルをゆっくりと進んでいく。暗闇の中で、先ほどの儚げなイグナーツの姿が浮かび上がっては、脳裏に焼き付いていなくならなかった。
洞窟の入り口で、吹雪く雪に二人で仲良くしばらくの間身体を震わせていると、ブラウが疲れ切ったような顔をしてやって来た。ハルトたち三人は互いに顔を見合わせながら、黙々とフラネージュへと目指していった。
灰色の雲と横殴りに降ってくる雪とが相変わらずハルトたちの視界を悪くさせていたが、ハルトたちの前方に、こちらへと向かってくる少人数の人影が現れた。やがてゆっくりとその輪郭を露わにした姿は、この銀世界の中でひどく目立つ、てかてかと黒光りする鎧をまとった傭兵集団『シュヴァルツ』のメンバーであり、その先頭をカイン・シャミナードが歩いていた。カインもブラウたちの存在を認識すると、じっとブラウのことを睨んできた。カインとブラウは古くからの友人らしく、ブラウが『ルミエール』に拾われるまではシルヴァンと一緒になって遊んでいたこともあったらしい。
ハルトはジルとの会話を思い出し、魔物退治をブラウに先越されたのかと思って睨んでいるのかと予想していた。しかし、カインと古くからの知り合いであるはずのブラウは、すっかり疲れ切っているのか、カインを一瞥しただけで何も話しかける気配もなく、そのままカインたちを避けて通り過ぎようとしていた。そして、カインがブラウとすれ違う際に、ハルトは確かに聞いた。
「今は別件があるから見逃してやるが、お前の持つ書物は必ず俺たちが奪う」
カインの低い、しかしはっきりとした言葉にブラウは何の反応も示さず、そのまま通り過ぎた。却ってハルトとルイが立ち止まってしまったが、何事もなく先を行くブラウに置いてかれないように急いで追いかけた。ハルトは、鉛のように重くなった足を必死に動かした。ぶわっと蹴り上げたように舞い上がる雪が鬱陶しく、意味もなく手をでたらめに動かす。先ほどイグナーツが初めてその腕を見せたときとは比べ物にならないほどの震えが身体を襲い、ハルトの頭はすっかり真っ白になっていた。