第21話
文字数 2,692文字
「わっ……わた、し……なにかを、忘れてっ……」
「お嬢様、今は安静にしていてください」
バニラは素早く台所から濡れたタオルを準備してきて、アリスの額に乗せる。それでもアリスの眉間に刻まれた皺は収まらず、苦しそうに悶えていた。バニラは拝むようにアリスの手を握った。
「わたし……なにか、大事なことを、忘れてる……気がっするの……」
「お嬢様は、何も忘れていません。きっと、白昼夢でも見たのでしょう」
「だって……バニラ、だってさ……」
いくらか息が落ち着いてきたアリスは、握られていないもう片方の手で胸の辺りを掴んだ。服に皺が寄り、爪が食い込むのも構わず、アリスは苦悶の表情を浮かべながら、泣き出しそうになっていた。
「ねえ……ここがっ、痛いの……この胸の、痛みは、なに……? わたし……きっと、何か大事な、ことをっ……」
次第にアリスは涙を流し始めた。バニラ含めロッティとガーネットもその涙に慌てるが、バニラはそれを指で拭ってやることしか出来ず、ロッティたちもその姿を黙って見ていることしか出来なかった。アリスは自身が涙を流していることにも気づかない様子で、苦しそうに息を吐きながらずっと遠くを見つめていた。
「ねえ……胸が苦しいのっ……どうして、こんなに悲しい気持ちに、なっちゃうの……私、何を、忘れてるの……苦しいよぉ……」
それからアリスが泣き疲れ眠ってしまうまで、アリスはずっと苦しそうに息も絶え絶えに悶え続けていた。眠ったアリスをバニラが背負い、静かに部屋を出て行く。ロッティたちもそれを見送るが、途方に暮れたような気持ちで、これからどうすれば良いのか何も思いつけなかった。しんと静まり返った気まずい空気に反して、アリスの寝息が場違いなほど穏やかに聞こえてきた。
「俺たちは……どうすれば良い……」
「ごめんなさい……私が予知夢を見られていれば、こんなことには……」
ガーネットが珍しく弱音を吐く。今まで何度も運命を操るようにしてロッティや他の人物たちを巻き込んでいったガーネットがそんな風に言ったことに、ロッティは絶望に打ちひしがれそうになるが、何とか弱りそうになる自分の心を奮い立たせた。
「ガーネットが気にすることじゃない……とりあえず、俺がセリアと会ったのが刺激になったんだと思う」
「確かにお嬢様はセリア様に挨拶を求められてから様子をおかしくされましたが……私には何が何だか分かりません。何かあのときおかしなことがありましたでしょうか」
「……もしかしたらだけど、幼馴染みって言葉が良くなかったのかもしれない。昔を連想させるような言葉で、アリスを刺激しちゃったのかもしれない……」
ロッティが何となくの心当たりを口にすると、バニラも感心したように頷いた。
「明日は……お嬢様の体調をまず優先させます。それでももしここに来たいと仰ったときのために、騎士団の方々のスケジュールを把握してきます。要は、あのセリア様と会わせなければ、本当にそれが原因だったかどうか分かるはずです」
バニラがロッティの憶測を基に迅速にまとめ上げると、一刻も早くアリスを安静にさせたいという想いが滲み出た様子で小屋を出ようとする。ロッティたちもそれを了承し、バニラたちを見送った。
二人っきりになった小屋に、再び静寂が訪れた。これほど痛い沈黙はロッティは初めてだった。運命というものの怖さと自身の無力さに再び打ちひしがれそうになっていた。
それでもロッティは、もう迷いたくなかった。アリスの真似事で下町にバナナケーキを振る舞ったあの日に垣間見えた、アリスの見ようとした世界を、ロッティは諦めたくなかった。
「ロッティ……」
ガーネットが静かにロッティの名を呼んだ。ガーネットの方を振り向くと、ガーネットはバニラが去った後の堅く閉ざされた扉を切なそうに見つめていた。
「もしそのときが来てしまったら……そのときは、私に構わずに、貴方の信じる道を選んで」
「……悪いけど、それは出来ない。俺はまだアリスもガーネットも」
「お願い」
ガーネットが悲痛な表情でロッティのことを見つめてきた。久し振りに向けられた表情に、ロッティは言葉を失った。ガーネットの赤く変わる瞳を久し振りに見た気がした。久し振りに見たガーネットの瞳は、やはり、どこまでも愛おしく感じられた。
「私はずっと昔に覚悟してきたつもりだった……なのに、貴方と旅をしているうちにその覚悟が揺らいでしまっているの……もし、私の覚悟が足らないばっかりにこの世界がもっと悲惨なことになるのなら、それこそブルーメルやニコラス、ピリスやエフといった多くのミスティカ族……シャルルやフルール、貴方のお友達、そして、私たちが訪れた街で地下通路の製作に協力してくれた多くの人たちに、顔向けができない……だから、お願い」
ガーネットはそっと、静かに垂れ下がっているロッティの手を取った。指をちょこんと握るような、照れくさそうな仕草が、却ってロッティの心を哀しくさせた。
「私が死んでも、貴方はそれを振り切って、未来を切り拓いて。アリスや皆が願った未来を切り拓けるのは、貴方しかいないの。貴方がそうしてくれるのなら、私は……死ぬ運命だって怖くないから」
ガーネットはそのまま手を離したかと思うと、ロッティの身体に倒れこみ、ロッティの胸に耳を当てるようにして身体を預けた。ロッティも、まるでロッティの胸の鼓動を聞いているかのようなガーネットの背中に手を回し、そっと抱きしめた。初めて抱きしめたガーネットの身体は案外に小さく、いかにその小さな背中に大きくて多くのものがのしかかっていたのか、その重さを知れたような気がした。
ロッティは、この小ささも感触も忘れまいと誓った。旅の初めに誓った、ガーネットに近づいて、気持ちを理解し寄り添いたいという願いが叶った今日の出来事とそのガーネットとの約束を、しっかりと心に刻み込んだ。胸の奥が火傷したかのように熱くなり、潤んだ瞳から零れそうになる何かを流すまいと必死に堪えた。ガーネットの鼓動がロッティにも感じ取れ、それと共にガーネットの悲痛で温かな想いがゆっくりとロッティの心に流れ込んでいた。悲運な未来を目前にして、やっとのことで互いの気持ちを通じ合わせたロッティたち二人は、今この瞬間だけは哀しくも幸せに包まれていた。