第2話
文字数 3,237文字
しかし、やがて一人の男性が前に出てきた。
「あんた……確か、この間死んじまったあの子をよく見てくれていた人だよな」
おずおずと前に出てきたその男性は、優しそうな瞳をしており、ロッティのことをじっと見つめてきた。そんな風に言われたロッティは、気恥ずかしいような、少年のことを思い出して悲しくなるような気持ちにさせられた。そんなロッティの複雑に入り混じった心中を嗅ぎ取ったのか、その男性の瞳が細められた。
「やっぱりそうだ……あんたは最近アリスさんにも付き添ってくれていたし、うん、信じるよ」
その男性は皆に手本を示すように丁寧に頷いてくれ、周囲の人たちにも早速話しかけていた。互いに話し合い、先ほどまでの警戒するような空気が弛緩していくのを感じて、ロッティの胸にじんわりと温かい何かが広がっていた。やがて男性も周りの人を説得し終えたのか、もう一度じっとロッティに視線を向けてくる。ロッティを取り囲む視線には先ほどまでの不安と不信に満ちた暗澹とした雰囲気はどこにもなく、じっとロッティの言葉を待ち望んでいるようだった。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
それから下町の人たちと協力して、ロッティは残っている他の下町の人たちも集めて、早速小屋へと向かった。急ぎたくなる衝動を抑え、皆がついて来ていることをしっかりと確認しながら進んだ。ロッティは、城の方角を見上げた。ちょうどロッティが見上げたタイミングで、まさに一人の人影が何人かを抱えながらふわっと浮かび上がっていくのが見えた。誰かを抱えたその人物はそのまま、抱えた数人を包み込むようにしながら再び巨大な鯱へと変身を遂げた。鯱へと変身したグランは、城に迫ったときよりもさらにゆっくりとしたスピードで、尾びれや胸びれで八つ当たりするように崩れていない城の部分や高い建物を壊していきながら、その奥に見える山脈へと泳いでいった。その山脈は、以前アリスに頼まれて一緒に連れて行き、レオンたちと出会った山脈であった。ロッティは改めて気を引き締めた。
「皆さん、少し急ぎましょう」
鯱の存在感や、帝都中を満たす混乱した空気に戸惑う下町の人たちを鼓舞しながら小屋へと辿り着いた。ロッティは小屋の中と小屋のすぐ脇にある、マンホールのようになっている円い鉄蓋を持ち上げた。その蓋の先には暗い穴が続いており、ロッティは皆にここが地下への入り口であると説明した。それらの穴に下町の人たちを一人ずつ順番に入らせていると、突然はるか遠くの方で大地が引き裂かれるような轟音と、先程よりも激しくも美しさすら感じる咆哮が重なり合って鳴り響いてきた。キィンとひどい耳鳴りに皆が耳を押さえている中、ロッティはまさかと思いその音の方へ振り向く。
かつてアリスにせがまれて連れて行った山脈が帝都の城と同じように厳かな雰囲気を纏っていた面影もなく崩壊し、その斜面に窪んだ焼け野原が凄まじい大きさで生じており、その場所からむわんむわんと不吉な黒い煙が立ち込めていた。その煙に混じって、火だるまになった樹々が、まるでおもちゃのように軽々と宙を舞っていた。そして、その上空には、三匹の巨大な生物が高く舞い上がっていた。一匹は巨大なエメラルドグリーンの鳥で、眩さすら錯覚するほどの煌びやかな羽を羽ばたかせ、真上へ飛んでいくその様はまさしく畏怖の念を抱かせるほどであった。もう一匹は、狼のような生き物で、白銀の毛皮はどんな鎧よりも頑丈そうに輝いており、滲み出る獰猛さと猛々しさは魔物のそれとは比べ物にならないほどの暴力性を秘めていた。そして最後の一匹は、たった今帝都中を震撼させた鯱で、何かから解き放たれたように優雅に舞うその姿は、相変わらず幻想的だった。
その光景は、まさに、世界の終わりを予感させた。そう思わせるには十分なほど、圧倒的な大きさと激しさであった。帝都中が再び混乱と悲鳴に包まれた。それでもロッティは、それらの幻獣族を冷静に見つめながら、焦りそうになる心を平静に保った。ロッティは心の中に、アリスの想いと、ガーネットの覚悟を汲んだあの瞬間のことを思い描いた。
——貴方がそうしてくれるのなら、私は……死ぬ運命だって怖くないから
ガーネットの言葉を胸に深く深く刻み込み、お守りのように大事にしまった。ロッティは改めて下町の人たちの顔を見渡し、安心させるように頷いてみせた。
「皆さんは心配しないでください。あの生き物たちなら、俺が必ず何とかしてみせます」
ロッティはこれまでのどんなときよりも冷静に、悠々としていた。そんなロッティの佇まいに、呆然としていた下町の人たちもすぐに正気を取り戻し、ゆっくりと着実に、一人ずつ地下へと潜っていった。
☆
火こそどこからも上がっていないものの、悲鳴が上がり、互いにぶつかり合いながら競うようにして先に行こうとする街の人々の混乱する様子はまさに、自身の運命を大きく決定づけたあの日を思い起こさせた。過呼吸になりそうなのを何とか抑え、街の人たちとは対照的にやけに冷え切って冴え切った頭でセリアは必死に声を掛け、ロッティに聞いた地下への入口へと案内していた。
城に戻って騎士団の人たちに事情を説明しようと歩き慣れた道をなぞっていると、街の人たちを健気に誘導しているハルトと出会い、ついでにハルトから詳細な事情を聞かせてもらった。ハルトはロッティほど詳しいことを知っているわけではなかったらしいが、ひとまず、帝都の人たちを、この街に三つある地下への入り口に誘導して、そこから地下へ避難させる必要があるそうなのだ。何故地下へ避難させる必要があるのか、そもそも何故地下通路という存在があるのかは分からなかったが、それでもロッティがこの日のために準備をしてきたのだというのはハルトの話を通じて伝わってきた。それでも、人知を超えた存在によって崩壊した城は、人間の尊厳を踏みにじられたように寂しく佇んでおり、あの日を思い起こさせる街の光景に、セリアはふと気を緩めば今にも蘇りそうになる激しい憎悪と深い絶望で取り乱しそうになっていた。
騎士団に所属して知った、異種族の生存を災いをもたらす存在として許さないとする法の存在、そして『ルミエール』のブラウが持っていた書物、アルディナの手記の内容を知ったとき、セリアは確信していた。ロッティが孤独に彷徨うことになり、ブルーノが亡くなることになったあの街での魔物の騒動、それを裏から糸を引いていた存在がいる。その存在を確信していたセリアは、今もどこかでまさにあの日の災害を再現しようと牙を剥いている存在がいる気がしてならず、どうしても心が昂ってしまっていた。その道中、帝都の城の背後に聳え立つ山脈が何か大きな力で激しく破壊されたかと思うと、三匹の巨大な生物が空高く舞い上がるのを見て、セリアはなおさら落ち着かなくなった。
貴族街に入ると、人々の様子も違っており、多くの人が避難のために家に立て籠もろうとしていた。騎士団もとっくに動いており忙しそうにあちこちに駆け巡っていた。街のとき以上に空気が張り詰めており、セリアはどうしても動悸が早くなる。ロッティとハルトから聞いた話を伝えるためにもセリアは近くを通りかかる騎士に、敬礼しながら声を掛けた。
「此度の事態において緊急の報告があります」
その騎士が立ち止まり聞く姿勢に入ったことを確認してから、セリアはロッティのことを伏せて地下への誘導について説明した。しかし、一介の騎士であるセリアの話にその騎士は半信半疑の様子で、判断に困りかねるように顔を歪ませていた。