第18話
文字数 3,040文字
「お前は、本当に姉に愛されているな」
ノアは、人間のときと同じ声音で唐突にそんなことを言った。その声は、これまで何度も血を流しながら攻防を繰り返し敵対していたのだということも忘れそうになるほど、親しみ深い緊張感のない声だった。
「急になんだ」
「いや……少しだけ、話をしようと思ってな」
ノアは殊勝な様子で話しかけてくるので、ロッティも警戒心を保ちながらその話に耳を傾けた。そのロッティの態度に、ノアもふっと表情を和らげたような気がした。
「もうすぐ俺たちの決着も近い。俺が死ぬにしろ、お前が敗れるにしろ、決着が付いてしまえばゆっくり話す機会もそうないなと思ってな」
「それは分かったが……なんなんだ、一体」
「ああ……ロッティ、済まなかった。お前には一度、謝っておかなければと思っていた」
ノアは心の底から悲しそうにそう詫びた。ロッティは静かにその続きを待った。
「自己満足に思われるかもしれない。それでも、シャルロッテのことをお前に黙っていたのは申し訳ないと思っている。もしシャルロッテがお前の姉だと知っていたら、お前はシャルロッテのことを敵視しながら別れるようなことにはならなかったろうに」
「……別に気にしていない」
その自身の言葉は本心からの言葉のつもりであったのに、ロッティは自分でも意外なほどその言葉に刺々しい雰囲気が込められているのに驚いた。ロッティは自身の心を振り返り、シャルロッテとの最期を思い返し、その言葉が本心であり自分の夢見た世界もぶれていないことを確認した。
「俺は、たとえシャルロッテが姉だと知っていたとしても……この道を選んだと思う。もちろん、その世界にシャルロッテがいて欲しかったが……それは、姉だと知る前からも変わってない」
「……お前は強いな。そして、それを支えているのは……ガーネットなんだな」
そのノアの言及に、ロッティは何も答えなかった。しかし、それを肯定と捉えたのか、ノアは気にしないように話を続けた。
「シャルロッテを殺してしまって、済まなかった……それでも俺は、お前に負けない。お前にガーネットがいるように、俺にも、俺を信じてここまでついて来てくれた奴らがいる。俺にも、エルマがいる……俺と道を違えながらも、俺に命を預けてくれたシャルロッテやヨハンたちがいた。だから俺も、ここで負けるわけにはいかない」
ノアは宣誓するように力強くそう言うと、再び空気が引き締まり、緊張で舌が渇きそうになった。ロッティも改めて意識を研ぎ澄ませ、目の前のノアに集中する。そして、ノアは力強く翼をはためかせ、その直後ロッティに向かって急降下してきた。
ロッティは一度剣を収め、舟にしがみついて吹き飛ばされないようにした。それでもノアの起こした突風に舟ごと吹き飛ばされぐるぐると視界が回る。離されまいと力んでしまい、その拍子に血がぶわっと流れ出るのを感じた。ぐるぐると回る視界に一瞬だけノアが迫って来るのが見え、ロッティは何とか舟の動きを捉え、咄嗟に舟ごと上空へ持ち上げた。そして、舟の真下をノアが通過しそうになったタイミングで、ロッティは舟を反転させ、その舟を足場に力の限りノアの背中に向かって跳躍した。
手を伸ばす。ノアの背中に、届きそうで届かない。両腕から流れ出る血が空を舞うと同時に熱をも奪っていき、ロッティの指先の感覚が消えかかった。息を吸い込むにも肺が冷え、その冷気が全身を駆け巡り、興奮した熱と混ざりあう。その激しいぶつかり合いに、その闘志が燃え尽きたときがすべての終わりであるとロッティは確信していた。
手を伸ばす。もう少しで、届きそうである。届くか届かないか、その一瞬の間が永遠に感じられるほど、手はゆっくりとノアの背中に近づいていく。ロッティは咄嗟に剣を抜き、その剣を能力で『捉え』、その剣をノアの背中に向けて『動かした』。その剣の動きに伴って、その剣を掴むロッティの身体もより早くノアの背中へと引き込まれていった。
やがて自身の体を突き上げていた突風を感じなくなった。落下していく感覚から、上下左右へ振り回されるような感覚になったと理解してようやく、自分がノアの背中にしがみつくことに成功したのだと気がついた。自分の手は確かにノアの羽を乱暴に掴んでいたが、相変わらず指先にその感触は伝わってこなかった。しかしその指や腕は、次に何をすべきなのかすべて把握しているかのように勝手に動いていた。
「これで終わりだ、ノア」
ロッティは剣を逆手に握り直し、大きく振りかざす。剣を握っている感触も、手が冷えていく感触すら薄れかけていたのに、剣先が肉の壁を抉り進んでいく感触だけはやけにリアルに伝わってきた。さらに視界は暴れ、重力の方向さえも危うくなるほど激しくなっても、ロッティは振り落とされることなどあり得ないことのように堂々とすることが出来た。
ロッティは突き刺さった剣を杖代わりに立ち上がり、ほとんど操られたように無心でノアの背中を斬り進む。進めば進むほど足場は不安定になり、耳にも何やら声が届いてくるがほとんど意味を解せなかった。ロッティ自身も何か意味のない言葉を叫んでいたが、ロッティ自身にもその叫びの意味は分からなかった。ときどき何かに足を取られ滑りそうになるが、ノアに刺さる自身の剣に能力を向け、その剣にしがみつくように掴まることで何とか落ちないようにした。
どれくらい進んだあたりであろうか、ふと剣が肉を斬り分けていく感覚が失せた。そのタイミングと同時に剣を大きく振り上げると、目の前の青い空に赤褐色の飛沫と羽が舞った。今まで暴れていた足場から力が抜けていき、ロッティの体は浮きそうになる。視界に映る空模様が途端にぐるぐると回り、シリウスの街並みが時折見えた。
ロッティの頬に熱いものが流れるのを感じた。その一筋の涙が、これまでの長い戦いに決着が付き、すべてが終わったのだということを教えてくれた。
よく知る姿に戻ったノアを肩に担ぎ、ロッティは浮かび上がらせた看板の上に乗ったまま、シリウスの上空から離れていく。ロッティの瞳には、街から離れ、二人の戦いを見届けていた数十名の姿が映っていた。
「なあ……ロッティ」
耳にかかる息に、ロッティはわずかに肩を震わせる。
「俺は……間違っていたのだろうか」
血の匂いのするその声は、今まで聞いた中で最も弱々しく、最も切実な声であった。飾られていないその言葉に、ノアのこれまでの人生の長さやその間に味わった苦悩の深さを想起させた。
「間違っていたとしたら……皆には悪いことをした」
「そう言っても、死んだ人は帰ってこない」
「それも、そうだが……あいつらにも、な」
ロッティは背中のノアが自分と同じように数十名の姿に目線をやったのを感じ取った。ロッティの瞳に映る彼らの姿と、ノアの瞳に映る彼らの姿にはどんな違いがあるのだろうか。その違いを想像しようとして、ロッティは途方に暮れかけ泣きたくなるような寂しい気持ちに胸が苦しくなった。
ロッティが地上近くにまで降下すると、その数十名はロッティの方へと近づいてきた。その足取りに迷いはなく、誰もがノアを憂う表情をしていた。涙を流したり、すすり声をあげる者もいた。