第18話
文字数 3,627文字
「うーん、すごいねー。やるじゃないか、君」
勢いづいて走ろうとするシャルルの水を差すような、お気楽そうな女性の声が上から降ってきて、シャルルは咄嗟に後退する。数少ない魔物たちも一度そこで動きを止め、まるでその者の登場を待つかのように地面に伏していた。やがて魔物たちの中央に全身を黒いマントで包んだ人が着地した。マントにフードがついており、顔を覆っていて表情を隠していたが、それが却って不気味な雰囲気を醸し出していた。
その女性は軽快な足取りで、何の躊躇いもなくシャルルたちに近づいてきた。全身をマントに包んでもなお漏れ出る敵意にもかかわらず、あまりにも滑らかで自然な動きに、シャルルも反応が遅れた。その立ち振る舞いや女性の放つ異様な圧に、これまでの比ではない危うさを察知したシャルルは、反射的にトムを丘の方へとぶん投げ、決死の思いでトムとその女性との間に入るように立ち塞がった。
「行け、トム! 妹を救ってやれ! お前はそのために来たんだろ!」
シャルルの必死の叫びと決してその女性を通すまいとする力強い背中に、トムは弾かれるようにして丘の方へ向かって走った。
トムの足音が遠ざかっていくのを確認してから、シャルルは気力を振り絞ってその女性を睨み返す。こうして対面しているだけでも脂汗がぶわっと溢れてくるほど、その女性から発せられる圧迫感は強く、その隙の無さにシャルルは息をするのも慎重になる。
「何故みすみすあいつを行かせてくれた。さっさと襲ってくれば追いつけただろうによ」
怯みそうになる身体を言い聞かせるようにシャルルは大きな声を出す。しかしその女性は困ったように頭を掻きながら、何故か背後をちらちら気にする素振りを見せながら、余裕そうにシャルルに向き直る。
「うーん、聞いてた話と微妙に違うなあ。君は願い事は良いの?」
「お前もそんなこと言うのかよ。俺が叶えたい願い事なんて今更ねえんだよ」
煽られたような気がしてシャルルは怒鳴るが、その怒鳴り声も涼し気に受け流す女性は、先ほどまで発していた威圧感もすっかり解いた。女性は「ふうん」と感心した様子で息を漏らしながら、そこら辺にあった適当な岩の上に呑気に座った。
「じゃあいいや。トム君、だっけ? 彼の願い事は叶えさせてあげる」
「……は?」
思ってもいなかった言葉に、シャルルはすぐには理解できず間抜けな声を零した。女性はそんなことも気にしていないかのように、足をぶらぶらさせて、やはり何度もシャルルがやって来た方向を気にしながらぼうっと座っていた。フード付きのマントのせいで顔色すら窺えなかったが、先ほどまでの敵意はもはやなくなっており、むしろ穏やかな雰囲気さえ感じられた。
「いやね、私も君に願い事を叶えるつもりがあったなら殺してでも止めたけどさ。でも、彼なら……いいや」
「……どういうつもりだよ」
さらっとされた殺す宣言に嫌な汗が滲んでくるのも放って、シャルルは気丈にその女性を睨みつける。対峙した瞬間の威圧感を忘れられずシャルルは警戒心を解くに解けなくなっていたが、その女性は本当にすっかりやる気を失ったように膝の上で頬杖をついていた。
「これは個人的な話になるんだけど……いたいけな少年の願いをぶち壊すようなこと、私はしたくないんだよ」
その女性の言葉をシャルルはどう解釈して良いか分からなかった。ただ、そう語った女性の口調は、その言葉にはどこにも嘘がないと信じたくなるほど優しいもので、そのせいでシャルルは余計に混乱した。
魔物たちもその女性が現れてから一向に動く気配を見せず、何をどうすればいいか分からなくなっていたシャルルだったが、やがてロッティと思しき足音が遠くから聞こえてきた。
「おっと。お仲間さんがやって来たみたいだね。じゃあ私はそろそろ帰ろうかな」
女性もその気配に気がついたようで、ゆっくりと岩から立ち上がった。
「じゃあね。あ、私がいなくなったらこの魔物たちも動き始めるだろうから、この魔物たちぐらいからはあの子守ってあげなよね」
「お、おいちょっと待て」
「あと、私がいなくなった後で万が一にも君が願い事叶えようとしたら、すぐに殺してあげるから」
シャルルの制止も聞かず、結局女性は何もせずに物騒な宣言だけ残してあっという間に鉱山の方へと駆けて行った。謎の女性の脚力はすさまじく、あっという間に暗闇の中を駆け抜けて行きその姿が見えなくなる頃にロッティがやって来た。それと同時に魔物たちが動き始めた。突然動き出した魔物に飛び掛かられたロッティは、とても同じ人間とは思えない身のこなしでその攻撃を綺麗に躱していた。
「うお、なんだこの魔物たち。急に動き出したな」
「話はあとだ。それより、トムの方にこの魔物を行かせないようにしてくれ」
シャルルはロッティの横に並んで魔物に剣先を向けた。シャルルのことを意外そうに見つめながらも、ロッティも自身の大剣を持ち出して構えた。
「……シャルルは良いのか、願い事」
「……またそれかよ。どいつもこいつもうるせーな」
繰り返し訊かれる質問に、シャルルは呆れたように笑った。
「俺の大切な人は死んだ。そいつのために、今大切な人がいる奴の願い事を奪うような真似できるかよ」
ロッティと同時に魔物の群れへ飛び込みながら、シャルルは自分の未練をきっぱり忘れさせてくれるきっかけとなった、ガーネットという女性の言葉を思い出していた。
——貴方の大切だった人は、大切な貴方のために、自分の命すら捨てたのよ。
——運命に逆らうことになろうとも、自分の命を投げうってでも、貴方の未来を守ろうとしたの。
☆
途中で何度も、必死に抑えていた恐怖が蘇っては足に纏わりつくような感覚に襲われ足がもつれたり転んだりした。それでもトムは自分を力強く送り出したシャルルの背中を思い出して何度でも立ち上がった。そうして、もう何時間も走り続けているような錯覚に陥りそうなほど走り続けて、トムはようやく丘まであともう少しというところまでやって来ていた。辺りはすっかり静寂に包まれ、シャルルたちの喧騒も全く聞こえなくなり、虫の音だけが風に乗って運ばれてきた。その静けさに、背筋がぞくぞくと震えた。
丘の上に立ち、空を見上げると、そこには街中から見上げたのと同じとは思えないほどの、綺麗な星空があった。夜空の暗闇は星の瞬きによって照らされて、とても夜の時間帯とは思えないほどの明るさと煌めきに満ちていた。その光景に、トムは足元から力が抜けて行ってぺたりとその場に座り込んでしまった。
「やっと……ここまで……」
トムは無意識のうちに安堵の声を漏らしていた。神秘的と言っても良い星空を眺めながら、リュウセイ鳥の伝説を確信していた。立ち上がる気力もないトムは、両の手を合わせてひたすらに心の中で願った。目を瞑ると、これまでの苦難の日々が蘇ってきた。
もう自力で立つことも、手を動かすことも出来ない妹に許されたのは、部屋の窓から外の景色を眺めることだけだった。世話を見るのに嫌になった母親がそれを理由に失踪したのを知ったときの妹、それでも自分たちを心配させないようにと必死に浮かべる妹の笑顔に、トムは何度も胸が引き裂かれそうになった。年末に亡くなると宣言され、絶望の淵に突き落とされ目の前が真っ暗になったときも、妹は気丈に何度も叱ってきた。
「私、十分幸せだよ。私のために泣いてくれる人が、お兄ちゃんとパパの二人もいるんだから」
健気にそう話す妹の姿に、トムは情けなさでいっぱいになると同時に、どうしても心優しき妹を救ってやらねばならないと決心した。絶望で真っ暗になったような頭の中で、妹の絵本にあったリュウセイ鳥の伝説が一縷の望みとなって、それに縋ってここまで単身やって来た。それでもリュウセイ鳥の伝説を狙っている人が他にも、よりにもよって武力を持った人たちがいることを知ったときの絶望、そして再び絶望の淵に落ちた自分を救ってくれた、見知らぬ女性とロッティと、シャルル。
「ありがとう……ございます……」
これまでの出来事を思い返し、溢れかえる想いが涙に変わり頬を伝った。それから、トムは願いを叫んだ。
瞬間、トムの頭上に広がる星空は瞬く間に輝きを増していき、やがて大きな光の玉が生じたかと思うと、花火のように四方八方に弾け、その光の残滓たちはその後ある方向へと向かって行った。その光は一筋の線となって、ぶれることなく煌めきながら、遠く向こうを目指して夜空を駆けていった。
トムの脳裏に、夜中苦しそうに眠っていた妹が、突然目覚め、不思議そうに自分の手を見つめながら立ち上がる映像が鮮明に浮かび上がった。