第16話
文字数 2,945文字
「もう大丈夫だ。俺がこの街を守るから、二人とも避難してくれ」
その言葉に、フルールの瞳からじわじわと涙が溢れ出てきた。フルールの涙を見るのは初めてだったが、ロッティはその涙が見られて良かったと心の底から感じた。依然として呆気に取られていたルイは、やがてフルールの涙に気がつくと正気に戻り、生意気そうに鼻の下を擦った。
「へっ。まったく、遅いっての。おかげでこっちはぜえぜえのはあはあだっての。これでフルールちゃん助けられても間に合わなかったら化けて出てたからな」
「ルイ……ありがとう」
フルールを必死に助けるためにフルールを抱えて走っていたのだと知れて、ロッティは素直に嬉しくなった。ルイはロッティのお礼もめんどくさそうに手で払って視線を逸らしたが、嫌がってはいなさそうだった。ルイは抱えていたフルールをゆっくりと地面に降ろすと、フルールは一部の隙間も見えないほど顔を手で完全に覆っていた。その様子をおかしく思いながらも、ロッティは話を急がせた。
「急で悪いんだが、丈夫なロープって用意できるか?」
「ロープ? うーーーーん、俺にはぱっとどこ行けば良いかってのは分かんねえなあ」
「ロープですね。分かりました、ついて来てください」
ロッティの頼みにルイがわざとらしく頭を捻らせていると、顔を覆ったままのフルールがくぐもった声で答え、そのまま顔を覆ったまま街の中を進んでいった。ロッティはルイと目を合わせるが、ルイも困ったように肩を竦めており、ロッティたちはフルールの後をついていくことにした。
フルールはある建物へと入っていくと、片手を解放し、誰もいない店の中をすらすらと進んでいき、一本のロープを手に取った。その後、律義に胸の辺りに手を伸ばしたかと思うと一切れの紙を取り出し、器用に片手で印鑑を押し、そのままロッティたちの方へ戻ってきた。
「おいおい良いのかよ。職権乱用だろ、あれ」
「良いのです。この街が無くなるよりよっぽどマシです」
ルイの呆れたような言葉に、フルールもどこか拗ねたような口調で強かに返しながら、つっけんどんにロープをロッティの方に差し出してきた。ロッティはそれを受け取り、ロープの感触を確かめてみた。しなやかで柔軟性があり、多少の衝撃には耐えきれそうなイメージを覚えた。何より、シリウスのことを長年支え続け、そのすべてを把握していると思われるフルールが、丈夫なロープと言って持ってきてくれたもの以上に良いものがあるとは思えなかった。
「ありがとうフルール。ルイ、フルールを頼んだぞ」
「わーったっての。そっちこそ、情けない話だが、アイツぶっ飛ばすのは任せたぜ」
ルイは得意げな顔を浮かべると、拳を作ってロッティに向けてきた。ロッティもその意図を理解して、拳を作ってルイの拳に突き合わせた。こつんと小さく音が鳴り、その音と感触にロッティは改めてルイの意志を受け取れたような気がした。そのやり取りを、いつの間にか顔を覆っていた手を外して眺めていたフルールが、小さく胸元で拳を作っていた。ロッティはフルールの目線に合わせて、ゆっくりと拳をその小さな拳に近づけ、優しく突き合わせた。フルールは頬を赤らめ、嬉しそうに目を細めた。ロッティはそれから、シリウスまで付き合ってきた看板を『浮かび上がらせ』ると、ロープをちょっとやそっとじゃ解けないようにしっかりと結びつけ、その看板に乗った。そして、ロープにしっかりと掴まりながら看板を浮かび上がらせて、シリウスの外へと目指して飛んでいった。
街を吹き抜ける風を一身に浴びながらシリウスの外に出ると、ノアが地上に降りた人たちと向かい合っていた。その様子は厳かな雰囲気で、ロッティが今まで経験したことのない空気感と、自分が今まで築き上げてきたのと似たような絆を感じさせた。ロッティがすぐそばまで迫ると、ノアたちもロッティに気がつき、視線をロッティの方へ向けた。
「準備はもう良いのか、ロッティ」
見た目こそ違うが、その声は今までシリウスや帝都で会ったときと何ら変わらない、険しいながらも芯の通ったノアの低い声だった。聞き慣れたノアの声に、懐かしさを感じながらももう元には戻れないような空気を感じ取ってロッティの心を虚しくさせた。
「俺を待っていたのか。さっさと次の爆弾を投下しちまえば良かったじゃないか」
「言っただろ。俺はお前のことも仲間だと思っていると。だからお前をみすみす殺すようなことはしまい。まあ、帝都のときはしくじって、でかい方の爆弾を落としちまったがな……シャルロッテに助けてもらったのか」
その名に、ロッティは一瞬心が怯みそうになるが、指輪をちらりと見て心を奮い立たせた。気持ちで負けないように、気丈にノアに向かい合う。
「どうしても……やめるつもりはないのか、ノア」
「……ここで俺が手を止めれば、俺を信じてついて来てくれた皆に申し訳が立たない。それに……」
ノアは、ふと視線をノアの背中に乗っていたと思われる集団に向け、そのうちの一人、ある女性が、ノアの考えていることを読み取ったかのように頷いた。ノアはゆっくりその視線をロッティの方に戻した。
「俺がここまで来るのに、多くの同士がその命を散らした。シャルロッテやヨハンも、最期の最期でロッティたちの想いに未来を託したようだが……あいつらも、俺があいつらの想いを良いように利用して殺してしまったようなものだ。皆を率いる者として、失格だ。それでも、だからこそ、俺は最後まで俺の信念を貫き通す。たとえ、お前と対立することになっても、それが亡くなっていった者たちに俺がしてやれる唯一のことだ」
ノアの話を聞いて、ジルの話にも出てきたヨハンが何をしていたのかについて何となく察しがついて、ロッティは心の中でヨハンに感謝の念を浮かべた。
ノアは鋭くロッティを睨みつけ、その迫力に、喉元に剣を突き付けられているような錯覚を覚えた。そのノアの姿からは、帝都で親しくしていた面影はどこにもなく、かといってまるっきり敵対しているわけでもなく、それこそこれまで何千年もの時代を経て築き上げてきた覚悟の深さがひしひしと伝わってきた。ロッティは首を振って雑念を振り払い、看板に再び乗り込み、片手でロープを掴み、片手で大剣を抜き、その剣をノアに向けた。剣を持つ方の指に着けている指輪が、ロッティの高揚を示すようにほんのりと青白く光った。
「俺も、アリスの願った世界のために、俺自身が望む世界のために、絶対にノアを止めてみせる。ノア、お前にはもう誰も、何も壊させない。俺がここでお前を止めてみせる」
ロッティの返答に、ノアが嬉しそうに微笑んだ。
「それが、お前の答えか……あくまで俺を殺すとは言わないのが、ロッティらしいな」
切なげに一度だけそう呟くと、一瞬だけ互いの視線が激しくぶつかり合った。その直後、どちらからともなくロッティを乗せた舟とノアが空高く飛び上がった。