第15話
文字数 3,350文字
「ジルのことを頼むぞ」
「ああ、任せとけ」
ブラウはアベルの肩を小突き、クレールにも視線をやって頷き合って、早速ハルトとルイを連れて再びフラネージュを旅立つことにした。
その日はここ最近で一番雪が強く吹雪いていた。こんな日に例の魔物に出会ったら一巻の終わりだなと思いながらも、ハルトはジルのふさぎ込んだ顔を思い出し、弱気になりそうな心を奮い立たせていた。ルイも「おー寒いー」とふざけたような口調で大袈裟に腕をさすりながらも、出かけるまでの間に剣をよく研ぎ、靴の感触を確かめるように何度も短く走るのを繰り返して準備を整えていたのをハルトは知っていた。
高い緊張感が保たれたまま、三人は互いに言葉を交わすこともなくやがて洞窟へと辿り着いた。そしてその洞窟の入り口には、当たり前のようにイグナーツが壁に身体を預けていた。その表情はひどく沈んだ暗い色をしており、先日までの威圧感は消えていた。
イグナーツはブラウたちの姿を確認すると、壁から離れて、ブラウたちが来るまで腕を組んで待っていた。
「イグナーツ、聞きたいことがある」
様子のおかしいイグナーツに臆することなくブラウが話しかけるが、イグナーツの反応は悪く、険しい表情のままブラウを見ているだけであった。様子のおかしいイグナーツにブラウも訝しんだ。
ハルトたちも何か話しかけたくなったが、律義に返事を待つブラウの様子にハルトたちも黙ってその成り行きを見守ることにした。やがて諦めきったようにイグナーツは一度目を閉じ、深く息を吐いた。
「俺からもお前たちに話すことがある。この洞窟の奥まで来て欲しい」
イグナーツはそれだけ告げて、いつぞやのようにブラウたちが反応を返す間もなく黙って洞窟の奥へと入っていった。ブラウたちももちろんそれを追いかけた。
イグナーツに連れられて進んでいると、洞窟の変貌具合にハルトの意識はいった。先日まで幻想的な光景が広がっていた氷光花が咲き誇る空間では、すっかり岩が積み重なって落ちてきており、その岩々の下で踏み潰されているであろう氷光花の光が頼りない線となって洞窟の壁を微かに照らしているだけであった。その不十分な光だけが照らされる空間は、以前までの幻想的な美しさは露ほどもなく、神秘的な雰囲気はあるもののすっかり廃れた寂しさだけが漂っていた。はるかに暗くなった道では、松明を点け続けていなければならなかった。
しかし、やがてトンネルに入り、その短い道を潜り抜けて出た先には、先日アランの遺体と遭遇したときと何ら変わりのない景色が目に飛び込んできた。その景色は、もう失われていたとばかり思っていただけに、ハルトは今一度その景色に心奪われていた。
「それで……一応訊いておこうか。何を俺に訊きに来た」
イグナーツの低い声に現実に引き戻されたハルトは、イグナーツの方を見やるが、その表情はやはり暗く、氷光花の光を背景にしたその姿は、諦めと死を思わせる危うさと儚さがあった。
「街の噂になっている魔物、俺たちが探している魔物……その魔物は、この間洞窟の上で暴れていたやつのことなのか? あの魔物のことを知っているのか? もしそうなら、知っていることを教えて欲しい」
ブラウは毅然とした態度でイグナーツに問いかけた。イグナーツの表情は終始曇っており威圧感もなくなっているが、依然として隙がなく、手ぶらにもかかわらずハルトたち三人がかりでも敵わなそうな力を秘めているのは明らかだった。それでもブラウは、そのイグナーツに負けじと背筋を伸ばして向かい合っていた。
「もうあんたしかいないんだ。俺たちに協力してくれていた探偵も死なせてしまった。その犯人についても心当たりがない。あんたはこの洞窟のことや、魔物に関わるなと忠告してくれたんだ、知っていることがあったら教えて欲しい」
ブラウの熱弁に、イグナーツは痛そうに表情を歪めた。しかし、ゆっくりと瞳を閉じて諦めたようなため息を吐いてから、すっとブラウと目を合わせた。
「そうだな……隠しごとはもうなしだ」
イグナーツはそのまま道になりに進み始めた。ゆったりとした歩調で、これから話そうとしている内容を整理するかのような足取りに、ブラウたちも従った。
「結論から言おう……例の魔物のことだがな。あれは俺の流したデマだ。いや……正確には、魔物だというのは否定してもらいたい、ていうところだな」
そのイグナーツの話しぶりが、ハルトにはよく分からなかった。理解の追いつかないまま、イグナーツの話は進んだ。
「魔物がいるというのは、少なくとも俺から見れば間違いだ。だが、噂になっていること……人が襲われたりしているという内容の方は、本当のことだ」
「……言っている意味がよく分からないんだが」
ブラウが困惑したように首を横に振るが、その反応に切なそうな顔をしたイグナーツが見せてきたものに、ハルトやルイ、そしてブラウでさえも息を呑んだ。
不思議な音と共に、空気が今いる空間から急速に追い出されていくのを肌に感じながら、それは現れた。イグナーツが軽く左手を挙げたかと思うと、肘から上の部分が青黒く染まっていきながら膨張していった。やがてイグナーツの左腕は、肘から上の部分だけでも人一人以上あるほどにまで膨らみ、見たこともない青白い紋様を浮かび上がらせた。これまでの冒険人生でおよそ似たものすら見たことのないそれに、身体が震え始め、鳩尾の底から何かがせり上がってくるのを止められなかった。
しかし、その後イグナーツが放った言葉は、その手の異形さに反してとても柔らかく、慈愛に富んだものであった。
「俺はこの手で……もう人を殺したくない。誰かの命を守るために使いたかっただけなんだ」
イグナーツは自らの左手を、憎むでも悲しむでもない複雑な表情で見つめていた。
「今回の俺は……俺と同じように虐げられ、俺と同じように普通に生きることを許されなかった仲間を守るために動いてきた。何も知らない子供たちを、ここの人間たちから守るために匿って……だから恐ろしい魔物がいるという情報を流して、子供たちを匿う小屋に近いこの洞窟に近づけさせないようにした」
イグナーツの語りは、ブラウたちに話しかけているというよりは、一人静かに罪を告白するかのように、淡々と続いていった。
「あんたは一体……何者なんだ」
ブラウのその言葉には、怯みも恐れもなかった。それをイグナーツも汲み取ったのか、ちらりとブラウを見て、大きくさせた左腕を元々の人間と同じ普通の左腕に戻していった。
「俺は幻獣族。高さ百メートル以上の巨人に変身することが出来る。遥か昔には、神のしもべなんて持て囃されたこともあった。今では世界からの追放者の一人……一匹に過ぎないがな」
イグナーツの瞳には、迷いがなかった。今まではどこかこちらに距離を置いているような雰囲気があり、必要以上に関わってこようとはしなかった。しかし、今のイグナーツは、それらを振り払って、ブラウたちを試すような目で見ながらこちらを向いてくれていた。
ハルトは、ロッティのことを再び思い出していた。ロッティも、普通の人間にはない能力を持っていた。ロッティもイグナーツと同じなのだと直感した。二人とも、普通の人にはない能力に苦しめられ、寂しい想いを経験してきたのだろう。そこには自分には想像できないような深い苦しみがあり、きっとこの先もその痛みを代わってやることすらできないのだとハルトは十二分に理解していた。それでも自分には何かできるはずだと信じたかった。ハルトは苦しくなる胸の痛みに耐えながら、イグナーツに一歩近づいた。