第1話
文字数 3,148文字
あれからどうなったのだろうか。身体を動かせない代わりに耳を澄ましてみても、記憶に新しい、激しい爆発音が重なり合っていたあの瞬間が嘘か幻であったかのように、遠くで穏やかな波の音が聞こえてくるだけであった。
「無理するな」
まるでロッティの動揺を見抜いたような低い声に、誰なのかと顔を動かすと、眼鏡を掛けた老人がしかめっ面をして、ロッティの傍で本を読んでいた。周囲を見渡すと、どうやら自分とこの老人はどうやら小屋にいるらしかったが、この小屋にもその老人にもロッティは見覚えがなかった。老人の眼鏡の奥の瞳がちらりとこちらを見ると、瞬く間に瞳が赤色に変化した。
「ようやく……ようやく、この時が来たのだな」
「は?」
意味深なことを呟いた老人は、ロッティの戸惑いも無視して「そこで待っておれ。連れを呼んでこよう」と告げると、そのままロッティを置いて小屋から出て行ってしまった。
まったく状況の掴めないロッティは、老人が出ていった扉を『捉えて』、手も動かさずに『開けて』みようとすると、見事に扉は独りでに勝手に開かれた。次にロッティは自分が横になっているベッドを『浮かせて』みせようと意識を集中させると、これも問題なく浮かばせることが出来た。訳の分からない状況の中で、少なくともこの能力が失われていないことにほっとしていた。
あれからシリウスはどうなったのか。ブルーメルは、フルールは、ハルトは、あの街にいる者たちは皆無事なのだろうか。そんな心配が段々と焦りに変わり、ロッティは一刻も早くこの場から離れなければならないと気が逸り、能力を駆使しながら小屋の外に出ることにした。能力で扉を開け、意識を集中させたまま次に自分のベッドを『浮かばせて』、そのまま開かれた扉の向こうへと『移動させ』た。
薄々予想していたことではあったが、小屋の外はやはりシリウスではなかった。浜辺が近くにあり、その海の向こうでは夕陽が沈みかけており、水平線周辺の海を燃やすように赤く照らしていた。対して陸側には何の開拓もされていないような猛々しい自然が豊かに広がっていた。シリウスの面影もない風景にロッティは嫌な汗が流れるのを止められない。集中が途切れ能力を緩めてしまい、ベッドが地面に落ち、その振動で体が痛んだ。悲鳴を上げるのを何とか堪え、ロッティはそれでもなおシリウスにいる皆はどうなったのかと必死に思いを巡らせていると、浜辺の向こう側から、先ほどの老人と共によく知る人影がやって来た。
「ロッティ!」
その少女、に見える女性はロッティの存在を認識すると走って向かってきた。ロッティに駆け寄るとあたふたと手を握ったり頬を触ったり、すぐにそれらの手を引っ込めたりして忙しそうにした。その姿にロッティは泣きそうになりながらも、痛みに身を捩った。
「け、怪我は……ご、ごめん。まさか、こんなに怪我することになるなんて……」
「お前は少しばかり想像力がないやつよのう。怪我なしでシリウスのあの爆発からここにまで流されてくるわけがないだろう」
赤い瞳を潤ませるガーネットの背後で老人が呆れたように溜息を吐く。しかし、老人のなんてことのない発言がロッティの気に障った。
「爺さん……シリウスで爆発があったこと、知ってるのか」
老人の眼鏡が奥がわずかに曇ったように見えたが、ロッティの中で憤りの方が勝り、目つきも鋭くなる。
「あの爆発があって……何で俺を助けた。他にも、助けるべき人間が……」
ロッティはブルーメルの最期を思い出していた。最期までロッティはブルーメルのことをよく理解できなかったが、それでも最期に見せたあれらの姿や言葉は、すべてブルーメルの本音であったと信じたかった。ブルーメルの言葉一つ一つが頭の中にこびりついたように張り付き、拭っても拭い切れない、忘れられそうにないものとなっていた。
「……明日、すべて話すよ」
すぐ傍に寄り添っているガーネットが重たそうに口を開いた。苦悶に満ちたその表情はやけに素直で、今までに見たことのないものだった。
「今日まで……かは分からないけど、ここまで信じてくれて本当にありがとう。明日、すべてを話すから」
「ガーネット……」
まるで自分の傷であるかのように、怪我を負ったロッティの腕をさするガーネットの辛そうな表情は、ロッティの内で昂る感情を不思議と鎮めてくれた。
ロッティはそのまま自分の能力を使って元の場所まで戻った。
ベッドに横たわったまま見知らぬ天井を見つめていると、今までの旅がすべて夢の中の出来事であったかのような静けさと空虚さがロッティを襲った。その静けさが、自分の気持ちを落ち着けさせてくれるような気も、シリウスにいた残りの人たち——フルールに、『ルミエール』の皆に、それからフルールの手伝いをしている間に出会った人たち——が今にも何者かの手によって危険な目に遭っているのではないかという想像に駆られてしまう気もした。
ガーネットに会ったからなのか、頭の中は不安で尽きないのに体は緊張が抜けきってどっとひどい疲労感が襲ってきた。シリウスの街の人間のことも、『ルミエール』も、これまでの旅のことも少しの間だけすべて忘れたかった。そう望みながら目を閉じると、ロッティは泥沼に沈んでいくようにあっという間に眠った。
翌日になり、目が覚めたロッティはまず初めに昨日ほど両足や右腕が痛まないことに気がついた。ベッドの傍らには老人ではなくガーネットが座っていた。目の下にはかすかに隈が出来ており、腰のあたりまで伸びている髪も所々はねていた。自分の右腕を見てみると、昨日までと違う真っ白な包帯が新しく巻かれていた。
「ありがとう……」
「……私は、そんなお礼を言われるような人間じゃない。私はただ、許されたいだけなの」
ガーネットは暗い声でそう呟いた。その言葉の意味は理解できなかったが、これまで時折見せていた暗い翳が今日この日に繋がっていたのかと思うと、微塵も怒る気にはなれなかった。
「らしくない。いつもの不愛想でいてくれ」
「……今日の話を聞いてくれれば、この意味も分かると思う」
ガーネットはそのまま目を伏せてしまった。ロッティは、そっと手を伸ばして、ガーネットの手を掴む。
「外の空気を吸いながら聞かせてくれ。俺もリハビリがしたい」
ロッティの提案にガーネットは何の返事も寄越さなかったが、静かにロッティの手をどけて立ち上がった。ロッティも何とかベッドから下り、立ち上がることに成功すると、そのままの勢いでガーネットの手を引こうとするが、ガーネットはひらりと身を引いた。
「まずは……朝食を摂ろう。私が用意するから、ロッティはベッドに座っていてほしい」
せっかくベッドから起き上がったのにとロッティは不満に感じたが、実際まだ立つには膝に入る力も頼りなく、自分が思っているよりも体は疲弊しきっていることを自覚させられた。ゆっくりとベッドに戻ると、赤い瞳をしたガーネットはようやく、ふっと小さく笑った。それを見てロッティは少しだけ胸のつかえが取れた。