第1話
文字数 3,233文字
——お前、あまり下町の人間には深追いするな
耳元で呪詛のように囁かれる言葉を振り切るようにロッティは走り続けた。血眼になって、目を凝らしすれ違う人の顔一人ひとりを確認していくが、それでも記憶の中の少年の顔と重なることはなかった。
「あ、ロッティ久し振りじゃ……っておい、どこ行くんだ、おい!」
不意に聞こえてきたハルトの声に、ロッティは胸の奥が熱くなり、息をするのも忘れた。
心のどこかで、ハルトの心を救えた自分なら、もう一度、誰かの心を救えるかもしれないと思っていたことにロッティは気づかされた。そして、それが酷く愚かな自惚れであることを痛感していた。上手く息を吸えているかどうかも分からなかった。あまりにも速く走っているからか、肺の奥で血の匂いがした。心臓の鼓動が、雑踏をかき消すほど五月蠅くなっていた。
ちょうどグランの小屋の近くだったのだろうか、ガーネットが寂しそうな足取りで、俯きながらロッティとすれ違おうとしているのが見えた。
——ロッティはどうして、その子の力になりたいと思ったの
ロッティの足が不思議とそこで立ち止まった。ガーネットも立ち止まった人物を不審に思ったのか、顔を見上げ、そしてロッティであることを確認すると、はっと息を呑み、これまでほとんど見たことのないほど苦しそうな顔になった。ロッティはすぐにそのガーネットの姿が、かつてシリウスでの爆破の直後、孤島にて再会したときに見せたのと同じ顔をしていることに気がついた。自分は傷ついていないのに、本人よりも辛そうな表情を浮かべるガーネットに衝動的に涙が出そうになる。しかし、いなくなった少年のことを思い出して、ロッティは踵を返してその場から逃げるように去った。
気がつけば帝都の外に出ていた。皮肉にも、あれだけ走り回っていたにもかかわらず息を切らしていなかったロッティは、そのまま帝都の外の平原を見て回ることにした。少し曇った空が湿度を上げており、湿った土を踏みしめる感触は頼りなかった。
どれだけ時間をかけて回っただろうか、帝都の外れの街医者のところにも、帝都の平原内にある有名な森にも、そしてガーネットと共に旅を始めたとき眺めた丘から見える場所にも、ロッティは求める姿を見つけることは出来なかった。ぽつぽつと雨が降り出してきて、ロッティは川沿いを走って行った。
やがて、小さな人影が川の側で佇んでいるのが見え、ロッティはその人物に駆け寄った。しかし、横顔が見えるようになると、ロッティは思わずその足を止めた。それを見計らったように、その横顔はゆっくりとこちらを振り向いた。その人物は、こうなることも知っていただろうに、ロッティの顔を見るとひどく驚いたように目を見開いた。
「……君は、なんて顔をしているんだい」
とても冷たい声だった。しかし、そこにはこれまでの旅で何度か見せてきたのらりくらりとした態度はどこにもなく、無防備な瞳でロッティのことを見つめていた。予想外の人物に出くわし、ほんのりとした雨が降り続けていたことで、ロッティの頭も少し冷めていった。
「ヨハンこそ……いや、何でもない。お前には関係ないことだ」
ヨハンを無視して川沿いを引き続き下って行こうとすると、ヨハンの腕が目の前に伸びてきて、ロッティもその足を止める。気が逸り、忌々しく思いヨハンを睨みつけるが、ヨハンはぼんやりと前方を眺めているだけで、やけにしおらしかった。ロッティの顔を横目に見ると、すっと懐に手を伸ばして、一枚の紙を取り出した。ヨハンは無言でその手紙をロッティに差し出した。
「君宛て……と言って良いだろうね、きっと」
呆然としているロッティに対して、ヨハンは意味深な言葉を残してロッティに無理やりその手紙を握らせた。そっと川辺を見つめて憂いながら座ったヨハンの姿は、癪ではあったが、同じミスティカ族だからなのか、どこかガーネットに似ていた。ロッティはその手紙を読むことにした。
『これをよむ人へ
ボクのお母さんは、この世かいで生きていちゃいけないから、しにました。
リンゴをつかったりょうりが、すごくおいしかったお母さんだった。
ボクの考えてることをなんでも言い当てる、すごい人でした。
何より、おなかがすきすぎて頭がどうにかなってしまいそうだったボクを、ひろって育ててくれました。
ボクに、この世かいのことをおしえてくれました。
それなのに、どうして生きていちゃいけなかったのか、ボクには分かりませんでした。
でも、ボクがわるかったってことは、すぐに分かっちゃいました。
だって、ボクがお母さんを色んな人に自まんしていたから。
この世かいで生きていることをかくさなきゃいけなかったのに、ボクが色んな人に自まんしちゃったから、
お母さんはこわい人に見つかって、いなくならなければいけなくなってしまいました。
それでも、ボクをわるくないと言ってくれたお兄さんやお姉ちゃんたちがいました。
とてもうれしくて、ボクも少しずつ元気になっていけました。
だけど、そのお兄さんたちも、さいきん辛そうなかおをしています。
ボクをずっと心ぱいしてくれていたお姉ちゃんも、さいきんここに来るのもむずかしいぐらい、辛いみたいです。
ボクがかかわる人、みんな辛くなっちゃうのかな。
そう思ったら、なんだかとてもいきが苦しくなってきました。
ほんとうに生きていちゃいけなかったのは、ボクだと思う。
少なくとも、お母さんよりボクの方が、生きていちゃいけないと思う。
天国でお母さんに会いたいな、会えるといいな』
何度も何度も読み返し、ロッティは受け入れたくない現実が嘘であることを願い続けた。しかし、何度読み返しても、それはまさに、少年はもうこの世にいないことを意味していた。ロッティは息が詰まり、膝にまるで力が入らなくなりその場に崩れ落ち、身体が倒れないようにするだけで必死だった。
「読み終わったみたいだね。ならこれだけは言っておくよ。この少年の死は運命で決まっていた。君は決して悪くない」
ヨハンの声音はいつになく優しくロッティの耳に届いた。ロッティはぼんやりとヨハンの方を振り向くが、ヨハンは変わらず川の方を遠い目で見つめていた。
「悪い人がいるとすれば、やはり僕たちミスティカ族を認めようとしないこの世界そのものであり……この運命が見えていながらこの少年のために命を懸けることが出来なかった、僕たちミスティカ族なんだろうね」
頭の中に一気に多くの情報が入ってきたロッティはすでにまともな思考をすることが出来なかった。そのせいで、淡々と少年の死について語るヨハンがひどく許せなく感じた。ヨハンが何故そこまで少年のことについて知っているのかを考える余裕もなく、ロッティは立ち上がってヨハンを睨みつけていた。その視線に気がついたヨハンは横目でちらりとロッティを見るが、赤い瞳が憐れむように細められた。
「感情的になるなら、この話はここでお終いにするよ。僕にもやるべきことがあるからね」
ヨハンは呆れたようにそう言いながら、すっと立ち上がり、ロッティの横をするりと通り過ぎていった。ロッティはヨハンの態度に条件反射的に背後から飛び掛かった。しかし、ヨハンはちらりと首だけ動かしてロッティの姿を確認すると、横にすっと動いてロッティの足を引っかけた。勢いの止められないロッティは派手に飛び上がり、その後地面を何回も転がっていった。