第20話
文字数 2,922文字
グランの記憶を失くしたアリスがこの小屋にやって来るのかは疑問だったが、昼も過ぎ、街の外の喧騒も賑やかになってきたところでいつものように扉が開かれた。
「おはよう、ロッティ、ガーネット!」
アリスが元気溌剌に挨拶し、ロッティたちも何とか挨拶を返す。アリスはその後、迷うことなく台所へと向かって行き、バニラを傍に従えながら昨日までのように菓子作りに勤しんでいた。淀みない動きにロッティはもやもやが溜まっていくが、それをおくびにも出さないように何とか努めた。
その後も、不気味なほど何事もなくアリスが菓子を作り終え、下町へと向かい、それも終わり帰宅していた。アリスは昨日までのように弾んだ足取りで小屋へと戻っていった。ロッティは胸が苦しくなってしょうがなかった。同じような気持ちをしているはずであるバニラが、顔色一つ変えずにアリスの傍でアリスの話に耳を傾けている様子にロッティは感服していた。
しかし、小屋に戻ってきたとき、アリスのそれまで明るかった表情が途端に色落ちていった。
「あれ……?」
アリスが漏らした声に、バニラが気にするように見つめる。アリスも自分の言葉に違和感を覚えたのか、不安そうな顔色でロッティとバニラを交互に見る。
「どうしたんだ、アリス」
ロッティが努めて平静な声で尋ねると、アリスは首を傾げながら、もう一度小屋の中に視線を戻す。居間ではロッティが起きたときと同じように、ガーネットがテーブルで静かに本を読んでいるだけである。
「いや、うーん、えっと……ねえガーネット、寂しくないの?」
「……どういうこと?」
ガーネットは本当に心当たりがない、という風に戸惑ったような声を上手く出していた。その声に一瞬アリスも怯むも、やはり首を傾げたまま納得がいってない風に小屋の中を見渡す。
「どういうことって言われると……ちょっとうまく言えないけど……でも、この小屋って、こんなに寂しかったっけって思っちゃって……」
「ふふっ……それは私が根暗だってことを言いたいの?」
ガーネットは自然な調子でからかうように小さく笑うと、アリスもようやく堅くなっていた相好を崩し、「違うってばガーネット。もう意地悪言わないでよ」と困ったように笑っていた。自然な笑いが起こり、アリスの表情にも明るさが戻っていた。そのやり取りに、ロッティはガーネットの強さと覚悟の固さを再認識した。
その後、アリスはガーネットやロッティといくらか話してから帰っていった。再び小屋は二人が取り残され、一気に寂しさが襲ってきた。ロッティはそれに耐えきれないように、自分の部屋へと戻っていき、ベッドの上に横になった。その日はそれから、ガーネットと話すことなく眠った。
それからも、アリスは小屋を訪れてくるが、やはり時折何か違和感を覚えたように居間を見渡したり、グランが使っていたが今はもう空になった部屋をぼうっと眺めたり、下町への往復する道中で思い出したように急に立ち止まったりしていた。それでも決定的に何かグランに繋がることを思い出したわけではないようで、違和感を覚えるだけに留まり、ロッティたちと何事もなくはしゃいでいる。
しかし、アリスの嬉しそうな笑顔を見るのがロッティにはどうしようもなく辛かった。以前と何も変わらないはずのその笑顔が、何枚かピースの抜け落ちたもののような気がしてならなかった。グランがいない日々をロッティたちは何とか演じているが、ロッティは爆弾を抱えているようで、はらはらして落ち着けない日々が続いた。ガーネットも予知夢でこの先アリスがどうなるのかはまだ見えていないようで静かに拷問のような日々に耐えていた。
ある日、いつものようにアリスと一緒に下町から帰っているときだった。アリスはその日もバニラやロッティに時折楽しそうに話しかけていると、ロッティたちの進行方向から何人かの騎士が向かってきているのが見えた。今までに騎士は下町やその周辺地域には訪れたことがなかったために、ロッティは嫌な予感を覚えた。背中に嫌な汗を感じながら、その騎士たちを避けるように行くべきかどうか迷っていたが、やがて見知った顔が見えてロッティも油断して気を緩めてしまった。
「あ、ロッティ……」
向こうもロッティのことに気がつくと、他の騎士たちに断りを入れたのか、セリアは一人でロッティたちのところへ駆けつけてきた。久し振りの再会にロッティも嬉しくなったのだが、セリアの表情は思いの外沈んでいた。
「えっと……ごめんなさい、何かお邪魔しちゃったかな?」
セリアが申し訳なさそうに言い出したので、ロッティもアリスたちに確認するように見やるが、アリスはむしろ興味津々そうにしていた。こんな時に備えて、バニラはともかくアリスの呼び方ぐらいは決めておくべきだったと内心焦った。
「いや、大丈夫だと思う……」
「ねえねえロッティ、その人知り合いなの?」
アリスが無邪気に尋ねてくる。ロッティは必死に頭を回転させ、言葉を選ぼうとした。気にしては余計に怪しまれると分かってはいても、どうしても向こうにいる騎士たちの視線が気になってしまっていた。
「あ、ああ。セリアは、俺の幼馴染み……で合ってるのか?」
「合ってるでしょ。初めまして。貴方のお名前は?」
セリアは沈んでいた表情をぱっと明るくさせ、ロッティにも馴染みのある、アリスにも負けない無邪気な微笑みでアリスに迫った。ロッティが冷や汗を掻きながらその行く末を見ていたが、アリスはいつまでも返事をしなかった。
アリスの様子がおかしいと気づいたのは、アリスがガタガタと震え始めた体を自分で抱きしめたときだった。ロッティも咄嗟に駆け付け、バニラと一緒に傍に寄った。
「え、えっ? どうしたの、大丈夫?」
ただ名前を尋ねただけでこうなるとは予想もしていなかったであろうセリアは戸惑いながらもアリスの顔を覗き込んだ。しかし、その言葉も届いていないのか、やがてアリスは「ぐっ」と呻きながら頭を抱えた。ロッティはどうすることも出来ず、ただアリスを見守ることしか出来なかった。バニラが優しく背中を擦っても、アリスの症状が和らぐ様子はなかった。
「ぐっ……ぐ、らん……?」
アリスの言葉に、ロッティもバニラもはっと息を呑んだ。アリスの意識は朦朧としていたため、その発言が意識下で行われたものかどうかは分からなかったが、このままでは良くないことは判断がついた。
「大丈夫? よければ私たちが医師のところまで連れて行くけれど」
「いや、大丈夫だセリア。俺たちが連れて行く」
心配そうに尋ねてくるセリアをロッティは制止する。バニラがアリスを背中におぶり、ロッティたちは小屋へと向かうことにした。
「セリア、ごめん。また今度話をしよう」
別れ際にロッティがそう声を掛けたが、返事は聞こえなかった。