第7話
文字数 3,377文字
「私、一度外に冒険してみたい」
アリスがもう一度咳払いしながらぼんやりと呟いた。いつもの雑談の一つだろうと踏んでいたロッティは何も言わずに、グランとの会話が始まるのを予想しながら本に視線を落とした。ガーネットから面白い本だと言われ勧められた小説で、城で暮らす孤独なお嬢様が異国の青年に恋するという話であった。ちょうどお嬢様の国から青年が追い出されそうになっているところを読んでいると、グランとアリスの諍いがうるさくなってきた。いつも通りのその騒動であると、何も気にせずに読んでいると、本の頭を軽くとんとんと叩かれて、ロッティも顔を上げる。
「ね、ロッティ。お願い」
「……何の話だ?」
唐突に話を振られロッティはそんな言葉しか返せなかったが、それも気に障ったようでアリスは少し頬を膨らませた。
「私、この帝都の後ろにある山を登ってみたいの。ロッティ、連れてってくれない?」
アリスが手を合わせて頭を下げてくるが、流れが読めなかったロッティはちらりとグランの方を見て説明を求める。
「外に出たら死ぬぞって脅してるんだが、全然聞いてくれやしねえ、このお転婆娘」
「そんな脅し、子供でも怖がらないよ。グランは馬鹿だなあ」
「アリスは十分子供だろうが……」
アリスが再び憤慨してグランに詰め寄る。話を聞いて初めのうちはロッティも真剣にどうしようかと悩んでいたが、次第にアリスとグランがいつも通りの痴話喧嘩を始めそうな雰囲気になっていたので、ロッティも面倒臭くなって放っておこうかと考え始めた。
そのとき、唯一閉じられている部屋の扉が開き、ガーネットが出てきた。
「良いよアリス、行きましょう」
ガーネットの助け舟にアリスがぱっと振り返り、嬉しそうに指を鳴らした。その仕草はまるで子供の遊びグループの大将のようだった。グランも似たような感想を抱いたようで、呆れた目でアリスのことを見ていた。アリスはその視線も無視し、胸に手を当てながら窓の外をもう一度見た。
「私、もっとこの世界のことを知りたいの。帝都の外の景色も知らずに城の中でぬくぬくと過ごすような人に、この世界や帝都を治めていく資格なんてないと思うの」
その表情は外に出られる楽しみと期待に満ちていたが、その声音はとても真剣なものだった。グランもそのアリスの様子に、呆れた目つきから次第に慈愛に満ちた優しい眼差しに変わっていった。やがて何を思ったのか、グランは静かに深いため息を吐き、ロッティの方を見た。
「ロッティ、引き続きアリスのこと頼むわ」
説得することを諦めたような口振りだったが、そのグランの言葉にはどこか寂しい雰囲気が込められていた。その心境を何となく察したロッティは、静かに頷き返した。
翌日、いつものようにアリスと共に下町を訪れたが、早めに帰ることになり、少年にも「ごめんね、今日はもうそろそろ行くんだ。また明日ね」とアリスが告げた。そう告げられた少年は別段特に表情を変えなかったが、少しだけ瞳を見開かせ、アリスの背中を見送っていた。ロッティはその少年の様子が気にかかったが、「また明日な」と言い残して行くことにした。
帰り道の途中でガーネットと合流した。
「グランはお留守番するって」
ガーネットが淡々とそう言うと、アリスは明らかに元気を失くしたように落ち込んでいた。それを見てガーネットが「グランもとても寂しそうにしていた。よっぽどアリスのことが好きなんだと思うよ」と子供をあやすように補足すると、アリスも顔を上げて、くすぐったそうに微笑んだ。
「それで? どうやって外に出れば良いんだ? 門から出て行くのは流石に不味いと思うんだが」
ロッティが疑問を呈すると、アリスは何でもないように「抜け道あるからそれで行くの」と明け透けに言ってのけた。これまでの生活でもこんな調子で色々言ってきたのだろうなあと想像し、グランの気苦労を想い同情した。
抜け道までの街を歩いているときも、抜け道を進んでいるときも、アリスは興奮したようにはしゃいでいた。好奇心旺盛そうに様々なものに目移りしており、中々先に進まなかった。時にはどうしても買いたいとバニラにせがみ、バニラも渋々といった様子で許可するとアリスは嬉々として買っていった。
一体誰が用意したのか、地下へ潜っていき洞窟のように暗い道を慎重に歩いていくと、やがて帝都の壁も川もを超えて外に出た。草木の青臭い匂いが香ってきて、次に横殴りの風が吹いてきた。ロッティも久しぶりの自然の空気が心地良かった。
「うーん、空気が美味しい」
アリスが両手を思いっきり広げ、身体を空に預けるように顔を上げた。アリスは感激したように瞳を閉じて、穏やかで、それでいてどこか懐かしむような表情で風と空気を深く感じ入っていた。
「ロッティ、お願い」
ガーネットに頼まれ、ロッティは帝都の壁からそっと一部を『剥がし取り』、平原から草葉を『抜き取り』、それらを束ねてこよりのようにねじりながらロープ状のものを作った。その草葉のロープを四本用意し、それを先ほど剥がし取った壁の一部に巻き付け、接着させた。それによって簡易的なソリが瞬く間に出来上がった。
「ロッティすごーい」
アリスがキラキラと瞳を輝かせながら、早速そのソリに飛び移り、草葉で出来たロープを掴んで身体を楽しそうに揺らしていた。バニラは明らかに動揺したように足踏みしていたが、ガーネットがアリスの前に乗り込み、アリスが嬉しそうにガーネットの腰を掴んで抱き着き、ガーネットも後ろを振り向いてアリスの頭を撫でているうちに、バニラも生唾を呑みながらアリスの後ろに乗った。皆が乗り込んだのを確認してロッティも最後尾に乗り、草葉のロープを掴んだ。それから、皆を乗せたソリを浮かばせ、なるべくゆっくりと、それでいてアリスが帰る時間に間に合うぐらいには早く動かして、平原を駆け抜けていった。速さの加減が難しくしばらく色々と調整していたが、前方から「気持ちいい~!」というアリスの嬉しそうに叫んでいるのが聞こえてきたので、ロッティはそのスピードに留めた。
帝都の壁より高くならない低空飛行で、帝都の城の背後に聳え立つ山脈へと向かった。山脈の頂上は遥か高く、雲にまで届きそうなほどであり、その麓から流れる何本もの大きな川は帝都を囲うようにして流れている。帝都から眺めているだけでは分からなかったが、山脈は遥か後方にまで長らく連なっており、『ルミエール』時代の冒険や、ガーネットとの旅の中でも見かけたことがないほど規模の大きい山脈であった。山に近づいてくると、麓の方でも早い段階から、あまり手入れのされていなさそうな、急な坂道が始まっており、その山の険しさが窺えた。ロッティたちを乗せたソリは、徐々に浮かび上がり、その坂道を見下ろしながら飛んでいった。今まで横に移動していたのが上方向へと動いたことによって、風も上空から吹いてきて、草葉の青臭い匂いが薄れていき、純粋に新鮮な空気が肺の中へ入りこんできた。
ロッティはどこか降ろせる場所を探す。どこも樹々が高く並んでおり、足場がどういう風になっているかがいまいち分からなかった。
「アリス、どこらへんで降ろせば良い?」
ロッティが風の音に負けないように大声で叫ぶが、アリスはそれも聞こえてなさそうにはしゃいでいた。ロッティはソリのようなものの動きを、慣性でアリスが振り落とされない程度に徐々に遅くさせ、やがてぴたっと止まり、ロッティはもう一度訊いた。
「アリス、どこら辺に行きたい?」
「あ、ロッティ! うーん、それじゃあ、帝都の街並みが見えるぐらい、高いところ!」
アリスの要望に、ロッティは再びソリのようなものの動きを再開させ、徐々に上空へ昇っていきながら山に沿って進めていく。ロッティはなるべく前方を注意しながら、帝都の方を振り返っては山の方を見下ろし、適切な場所を探していると、やがて見知った人物を見かけて、ロッティはそのソリを緩く方向転換させ、ふわふわと空中を漂いながら山に並ぶ樹々の間をすり抜け、ゆっくりと着地させた。