第8話
文字数 3,361文字
不思議だったのは、死臭が濃くなっているにもかかわらず、その臭いの発生源がどこにも見つからなかったことであった。ハルトは自分が見逃しただけかと思い、他のメンバーの様子を窺ってみるが、皆も渋い顔をしているだけで、この状況に戸惑っているようであった。
「何も見つからないまま行き止まり……だな」
皆が思っていそうなことを、アベルが寒さで赤くなった鼻の下を擦りながら代弁した。そのまま氷柱を吟味するようにじっくり見つめるアベルに、まさかこの幾本も聳え立つ氷柱をすべて折ってまで洞穴に向かうのではないのかとハルトは内心冷や冷やしていたが、流石にアベルもそんなことも言わず、困ったように頭を掻いてブラウの判断を待っていた。
ブラウは一度皆の顔を見渡した。
「疲れている奴は……いなさそうだな。よし。皆の話を聞きたい。誰か、ここに来るまでの間で何か気づいた人はいるか。それを聞いてから判断しようと思う」
ブラウが皆の顔色を窺うようにじっくりともう一度見渡す。そう言われて、ハルトは、先ほどジルもルイも聞いていないという悲鳴を思い出した。
「俺、さっき悲鳴みたいなの聞いたんだ。もしかしたらこの臭いと関係あるんじゃないかって思ったんだけど……なのにその悲鳴の主も臭いの元もどっちも見つかってないのって、何か変じゃないかって思った……」
ルイに何か言われるのではないかとちらりと横目で様子を確認するが、ルイもルイで何か心当たりがないかと考え事をしているのか難しい顔をしたままで、あまりハルトの話に集中していなさそうであった。
ハルトの意見にブラウが力強く頷いた。
「俺以外にも聞いてるやつがいたか。実は俺も誰かの悲鳴を聞いたんだが、アベルとかクレールの様子見てみても、何も聞いてなさそうだったから空耳だと思ってた。良かった」
ブラウも聞いていたと知って、ハルトは少しほっとしていた。
皆がどよめきながらも、ブラウは力強く拳を掲げて、皆の注目を惹きつけた。
「よし、そういうことなら決定だ。この辺りをもう少し詳しく調べるぞ」
そのブラウの宣言に、皆も頷いた。ブラウが今のように力強く皆を先導するたびに、前団長もこんな感じだったのかなとハルトはいつも想像していた。道の脇に寄り、その場にしゃがんで高低差のある岩場に降りられないか確かめながら慎重に探索を始めた。
しかし、しばらく『ルミエール』とアランの一同がその空間を探索してみても、魔物の姿はおろか、その魔物がいた痕跡すら見つけることが出来なかった。死臭がしていることが意味することは、普通ならば生き物同士の争いが起きていたことであるはずだが、これだけの人数で探索してみても血痕やすぐには分解されないはずの骨などがどこにも見つからなかった。ハルトも岩場を降りて行ったり、氷柱の森の合間を潜り抜けたりしてその痕跡を探してみたが、それらしい痕跡も見つからず、諦めて皆の下へ集まった。
皆が集まったところでそれぞれの報告が始まったが、やはりハルトと同じように何の痕跡も見つからなかったらしい。
「これだけ皆が探しても見つからない、とすれば……あの先だろうな」
クレールが、行き止まりの先にある、高いところの洞穴をじっと睨みつけた。ハルトは何の痕跡も見つからなかったのが何故なのか見当もついていなかったが、クレールの指摘を受けて納得した。
「やっぱり力づくで行ってみるか!」
アベルが張り切って腕を捲るが、ジルが静かにそれを制止させた。やはり先ほどぼやいたときに内心そう思っていたのか、アベルは氷柱を登ってでも行こうとしていたらしい。
「いや、その必要はないかもな。明日にでも外側からあの洞穴に通じるところがないか探してみよう」
「ん? どういうことだ?」
「気づいてなかったのか? この洞窟の中は段々下に向かってたんだ。つまり洞窟の中を進んできた俺たちは、今地上より何メートルか地下のところにいるんだ。なら、あの高いところにある洞穴は、俺たちから見た高さ的に、地上に繋がっている可能性がある」
「そう、クレールの言う通りだ。あの洞穴は実際地上と繋がってるぜ。天井があまりにも高いから気づきにくいけどな」
クレールとアランの説明を受けて、アベルが恥ずかしそうに頭を掻いた。ハルトも内心、ぎくりとして恥ずかしくなった。先ほど滑りやすくなっていると感じたのは、氷柱から垂れた水滴が凍っていたから以外にも、実際に斜面になっていたからだったのだと今やっと気がついた。
ブラウが一度皆の顔を見渡して、頷いた。
「よし、じゃあ一度入り口まで戻るぞ」
地下にいるのだと意識すると、ブラウのその宣言も反響してよく聞こえる気がした。
結局何の魔物も危険も見つけられなかった『ルミエール』とアランたちは、行き止まりにある氷柱に剣で掘って印をつけた後、入口まで帰ることになった。引き返す道中、些か緊張感に欠け、冒険していてもなかなか見られない幻想的で美しい光景が広がっていることもあって、ハルトは危険な依頼の最中だということも忘れて入り口までの間、じっくりと目に焼き付けるようにその光景を眺めていた。
最初に訪れたのと同じように、何の危険もなく、死臭も次第に薄くなっていきながら滞りなく入り口に辿り着くと、その入り口の外で大柄な人影が何かを待つように立っていた。外は雪が強く吹き付けているが、わずかながらに差し込む光によってその人影は黒いシルエットとなっていて、どんな人相をしているのかまでは判別つかなかった。洞窟に入っていたときと同じように先頭を歩いていたブラウとアベルは、後ろの皆を距離を取るように制止させながら、慎重な足取りでその人影の待つ入口へと向かって行った。
「お前たち、何をしにこの洞窟にやって来た」
逆光になっていてよく見えなかった顔がようやく認識できるぐらい距離が縮まってきたところで、その大柄な人影がブラウたちに尋ねた。その大柄な男は、『ルミエール』の中でも一番背が高いアベルよりも背が高く、がっしりと広い肩から伸びる太く逞しい腕や分厚そうな顔にいくつも傷跡を残しており、険しい表情も相まって歴戦の猛者を思わせる雰囲気があった。これだけの寒さにもかかわらず肌を露出させた腕を組んでハルトたちの前に立ち塞がるようにしているその佇まいに、何の得物もなさそうなのに相当な実力者だとハルトは予感していた。
「フラネージュの街長からの依頼だ。それ以上は守秘義務があって言えないな」
アベルが背後の皆を庇うようにして身構えながら一歩前に出た。
「お前たちがこの洞窟に何かしらの噂を聞きつけて来たというのなら、悪いことは言わない。大人しくその件からは身を引いた方が良い」
その大柄な男は、顔色一つ変えずに、アベルの返答に間髪入れずにそう答えた。抑揚のない、無感情な答え方ではあったが、ハルトは何故だかその言葉から切実な何かを感じ取ったような気がした。その正体が何なのかまでは分からなかったが、ハルトは強めていた警戒心を少しだけ緩めてその大柄な男の様子を窺うことにした。他の者たちは、ブラウとアランを除いて、依然としてその大柄な男に警戒するように距離を取ったままである。
「何故そう思うんだ。あんたはいったい何者なんだ」
ブラウもハルトと同じものを感じたのか、すっかり警戒心を解いたように肩の力を抜いて、その大柄な男に歩み寄った。その大柄な男はじっと品定めするようにブラウのことをじっと見つめていたが、やがてふいと視線を逸らし、ブラウたちに背を向けた。
「名はイグナーツ。それ以外に答える必要はない」
それだけ言い残すと、ブラウが呼び止める間もなく、雪の降る雪原の中に姿を消していった。