第8話
文字数 2,968文字
下町へ向かう道中、ロッティはどうしても不安を拭い去ることが出来なかった。朧気にあった動機ではあったものの、本当に行動に移した今となっては、ロッティは本当に自分がしたかったことが何なのかがよく分からなくなっていた。衝動的な自身の行動がとても浅墓なもののような気がして、気持ちがすっかり怖気づいてしまっていた。しかし、そんなロッティの心情を読み取ってなのか、ガーネットが「大丈夫よ」と落ち着いた声で静かに宥めてくれた。それでもロッティは漠然とした恐怖やもやもやを完全に解消することは出来なかった。
下町に到着し、ロッティの緊張はさらに高まった。しかし、そんなロッティの心情を知ってなおガーネットはすたすたと歩き建物の扉をノックして入っていく。ロッティはもつれそうになる足を何とか動かしながらガーネットについて行く。
まだ心の準備も何もできないまま、何度か見かけた男性の顔が出てきた。男性の方もロッティたちのことを覚えていたそうで、眠そうな顔つきで「あんたらか……」と呟くと、不思議そうにロッティたちのことを見てきた。
ガーネットが早速、ロッティの持つバスケットの中から男性にバナナケーキを差し出した。男性が一瞬きょとんとして、ガーネットとバナナケーキ、そしてロッティの顔を交互に見る。ロッティも困惑して、何を言おうかと必死に考えて却って頭の中が空回りしていた。
「これは、この人が一生懸命作ってきたバナナケーキ」
そんな混乱しているロッティを他所に、ガーネットが静かに話し始めた。男性も視線をガーネットとバナナケーキに移す。
「アリスが貴方たちにしてあげたことを通じて、この人もアリスと一緒の気持ちになろうとしたがってる。アリスの理想を理解しようとして、貴方たちに近づきたくて、朝から一生懸命作ってきたの。良かったら、召し上がってみてくれる?」
ガーネットはそんなことを言いながら、もう一度バナナケーキをそっとその男性に近づける。その男性は躊躇いながらも、ガーネットからそれを受け取り、恐る恐る口に運んだ。ロッティの目には、その一連の流れがやけにスローモーションに映った。固唾を呑み、上手く息が吸えているかも分からないまま、男性の口から出る言葉を待っていた。
やがて男性の口が開き、途端に眠そうな顔が破顔した。
「やるじゃねえか、兄ちゃん。不器用そうな顔してるのにな。一生懸命だったっていうのが伝わって来るぜ」
それは待ち望んでいたような、期待していた言葉であったような気もするし、それなのにどこか現実感のなさを強烈に感じていた。それから、流れるようにして広場に集まり、いつの間にか他の皆にもバナナケーキを披露していた。そして、それぞれがめいめいに反応しながらも、漏れなく好感を示してくれていた。背中を叩かれ褒められたり、美味しいと感想を聞かせてくれたりしながら、下町の人たちはロッティを中心に盛り上がっていた。
やがて大勢の人と話すのが苦手なロッティは、バスケットだけを人の中心に置き去りにして、そのままその集団からそっと離れ、いつの間にか遠くで見守るように佇んでいたガーネットの横に並んだ。バスケットを囲う人たちも、輪から離れて壁に寄りかかるロッティを不思議がったが、いつもアリスと来ていたときもそうしていたからなのか、納得した様子で再びバスケットの中のバナナケーキを食べながら思い出話を再開させていた。
どの人も違う境遇で、違う理由で下町に流れ着いた人たちが、自分の用意したもので同じような反応を示してくれる。ロッティは、アリスの言葉を思い返しながらその光景を眺めていた。すると、その下町の人たちの様子が、かつて自身とハルトが初めて会って、馬車の中で一緒に身を寄せ合いながらスープを飲んだ光景に重なって見えた。自分で自分の姿を見ることは出来ないはずなのに、ロッティは何故かその光景も、今見ている光景と何も変わらないのだと確信していた。そして、唐突にアリスが何を見ていたのかを理解した。アリスは、あの日ロッティとハルトが身を寄せ合ってスープを飲んでいた光景の中にある温かな光を、この下町の人たちの賑わう様子の中に確かに見出していたのだ。
ふと脳内に、独り寂しく部屋の隅で縮こまっていた少年の姿がフラッシュバックした。咄嗟に心の中のその少年に向けて手を伸ばすが、少年は霧のようになって消えていった。それを虚しく思うも、ようやくその手の平の上にある何かの正体が見えたような気がした。それは、孤島にてすべてを知ったあの日からずっと自分の中で燻ぶり続けていたものであり、それが輪郭を持ち始め、鮮やかに色付いていきながら自分の中に広がっていった。
「知りたかったアリスの気持ちは、これで分かったの? ロッティ」
隣でそっと寄り添うように立っているガーネットが、まるで目の前で盛り上がっている人たちに聞かれないようにするかのように囁いた。その何でもない囁き声が、とても大切なもののように、今自分の中に広がっていったものに溶け込んでいき、溢れかえりそうになる。
「……アリスが自分の理想をそこまで信じられる理由は分からない……俺はまだ、アリスみたいに強くはなれない……でも、アリスが見たかった光景がどんなものなのかは、分かった気がするんだ」
ロッティはそっと、ガーネットを振り向く。ガーネットもこちらをじっと見つめていた。瞬間、ロッティの代わりにバスケットを中心にして盛り上がる人たちと世界が切り離されたような、二人ぼっちの空間に閉じ込められたような感覚がした。
そんな心境でガーネットを見ていたからか、ふっと走馬灯のように、これまでのガーネットとの日々が脳内を駆け巡った。何故自分がガーネットを理解したいと思ったのか。何故『ルミエール』を去りながらも、彼らを理解しようとしているのだとガーネットに指摘されたのか。何故アリスと同じことをしようと思ったのか。そして、ガーネットに尋ねられた、何故自分があの少年を助けたいと思ったのかも、すべてがピースとなって合致していった。ガーネットがいなかったらきっと、ここまで辿り着くことも出来ずに、こんな想いを抱いて満たされることもなかったのだとロッティは確信していた。
「俺も、同じだって思いたかったんだ……こんな俺でも、皆と変わらないんだって、皆と同じように生きているんだって思いたかったんだ……今、ようやくそれに気がつけたんだ……」
溢れ返りそうになる感情を必死に胸の内に留め、何とかしてそれだけ答えた。ガーネットも、一瞬驚いたような顔になりながらも、すぐに赤い瞳がきゅっと柔らかく細められ、これまでに見たこともないほど優しく微笑んだ。その微笑みを見て、返しても返しきれない感謝の念を伝えるのも忘れて、ガーネットにはこうなる未来が来ることをあの頃から知っていたのだとロッティは確信していた。そんなガーネットの愛しい微笑みに、ピリスの孤児院を出てから始まった自身の旅の一つをようやく終えられたのだということを、ロッティはしみじみと感じていた。