第1話
文字数 2,720文字
いつものように流れ星を見るために帝都から抜け出して夜空を眺めているときだった。夜になっても騒がしい帝都とは違って、虫の音が聞こえるだけの草原は静かで心地良かった。この辺りは魔物も出てこず、どこまでも広大な草原が見えるだけの静かな光景だった。その静かな空間にいる間だけは、アリスは日々の苦しみや嫌なこと全てを忘れることが出来た。
苦しい日々が続いていたある日、リュウセイ鳥の伝説の話を知ってからというもの、流れ星を見ようと毎晩召使いのバニラの目を盗んで寝室から抜け出し、夜空を見上げに行っていたが、未だに流れ星を見つけることは叶っていなかった。今日も探しているうちに首が痛くなり始め、眠気も襲ってきてそろそろ寝室に帰ろうかと考え始めていたときだった。
夜空を一筋の光が流れた。寝ぼけ眼だったアリスの目はそれで一気に覚め、慌てて願い事を唱え、思わず目を閉じて祈った。
「ど、どうか素敵なプレゼントを、私に下さいまし」
唱えた後も動かずに、祈りの時間が長ければ長いほど願いも叶いやすくなるような気がして、アリスはしばらくその場でじっと祈り続けていた。やがてアリスの頬を涙が伝ったが、アリスはそのことに気がつかなかった。
とても長い時間が経ったような気がして、もう充分だと判断したアリスがそっと目を開けると、不思議な白い光が目の前に浮かんでいた。その白い光はしばらく小刻みに揺れていたが、しばらくするとゆっくりとアリスから離れていった。光で真下がうっすらと照らされており、星明かりでぼんやりとしか見えなかった草の道がくっきりと見えるようになっていた。アリスからある程度離れると宙に浮かんだまま留まり、再び小刻みに揺れ始めた。
アリスは、何故かその光を追いかけたくなった。幸い、光によってアリスの足下まで照らされていたので、危なげなく光の下まで行くことが出来た。アリスがその光に近づくと、光は再びどこかへと離れていき、ある程度アリスから距離が出来るとアリスを待つようにその場に留まった。アリスは取り憑かれたように光の導く通りに追いかけていった。時間も忘れて追いかけ、草原を抜け森に入り、やがて湖にたどり着いた。
観光名所としても有名で、アリスも何度かその存在を耳にしたことのある湖だったが、実際に初めて訪れた湖は、近寄りがたい神聖な空気に満ちていた。城の中や、帝都の貴族街、そして話に聞いてイメージを膨らませていた他の街の雰囲気や広大な世界のどれとも似つかない神秘的な空間に、アリスは自分の住む世界から随分と遠いところまで来てしまったのでは無いかという不安を覚えた。
湖に辿り着くまでにアリスは服のあちこちを枝に引っかけ、霧中で追いかけていたため何度も石に躓きそうになったため、服装がぼろぼろになっていたが、アリスはそれらは気にせずに、恐る恐る湖の側で止まった光に近づいた。
留まっていた光の真下に、割れた卵の殻と小さい魚のような生き物を発見した。アリスはその生き物と卵の殻を物珍しそうに見つめた。不思議と不安だった心も妙に落ち着いて、何の警戒心もなくゆっくりと魚のような生き物に手を伸ばし、頭と思しき部位を撫でてみた。その生き物の肌は、予想に反して湿っておらずさらさらしていた。生き物は眠っているようで穏やかな寝息を立てていたので、起こさないように慎重に撫でた。そうして撫でていると、アリスの心も安らいでいった。
城での嫌なことも忘れて、半分夢見心地で撫でながら、アリスがこの生き物は湖に返せば良いのかと悩んでいると、唐突に生き物の目が開いた。
「俺を呼んだのは、お前か?」
「ひゃああ?!」
突然の声にアリスは飛び退いて尻餅をついた。その拍子に手に木片に手を掠め、ささくれが刺激されて痛みが走り、そこでもう一度アリスは小さく悲鳴を上げた。
「おいおい、その反応は流石に傷つくぞ」
「ご、ごめんなさい。お話しできるとは思っていませんでしたので」
立ち上がり尻餅をついた部分を払ったところで初めて自分の服装がボロボロになっていることにアリスは気がついた。どうせならと、アリスは服装の一部を頑張って千切り、ささくれの部分に巻いた。
「服をこんなにしてしまってはまたバニラに怒られちゃいますわね」
「……それで、俺を起こしたのは、つーか呼んだのは、お前か?」
「えーっと……はて、何のことでしょうか?」
アリスはきょとんとした顔で、やけに低い声で喋る生き物を見つめた。何も分かっていなさそうなアリスのその様子に、生き物は苛々しげに尾ひれのような部位を揺らした。
「誰かに呼ばれたと思ったら殻が急に割れて陸に打ち上げられたんだ。久し振りの外の世界で、とりあえず周囲に人の気配も魔物の気配もないから寝ていたところに、お前がやってきた。お前以外に俺を呼んだやつはいないと思うんだがな」
「そう言われましても……あっ! もしかして!」
魚のような生き物が明らかに苛ついた態度を示してもアリスは気にせずに、大袈裟にはっと口を開いて驚いた。生き物はその様子に呆れて尾ひれの揺れを緩やかにさせていると、アリスは生き物を両手でぐいっと抱え上げた。
「わたくし、アリス・ヴェイユと言います! 先程流れ星にプレゼントをお願いいたしましたの! まさか貴方がそうなのでしょうか?」
「し、知らねーよ。というか、人をプレゼント呼ばわりかよ、そして下ろしてくれや」
「貴方にお願いがありますの!」
「ったく、人の話を聞けって……まあいいや、なんだ、そのお願いってのは?」
爛々と輝くアリスの瞳を見て生物は何を言っても聞く耳を持たないだろうと悟り、渋々話を聞くことにした。
アリスは、このとききっと、何かに取り憑かれていたのだと、振り返ってみると思う。いつもの自分だったら未知の生物に対してここまで熱心になることなどなかったはずだった。
それでもここまで生物に対して無防備に接することが出来たのは、やはり奇跡を感じていたからなのだろうか。
「わ、わたくしと! おとも……お友達になってくださいませんか!」
☆
それは、あまりにも分かりやすくて、簡単で、それでいてあまりにも綺麗な願い事だった。
アリスは涙を流していた。綺麗な笑顔とは不釣り合いなほどに涙を流していた。
生物はその姿を綺麗だと思った。これまでの記憶の中にある見てきたもの、触れてきたもの、聞いてきたもの、そのどれをも差し置いて、このアリスの姿がこの世で最も美しいもののように思えた。
その夜、奇跡がアリスの下に舞い降りた。ロッティがガーネットと出逢う七年前のことであった。