第6話
文字数 2,915文字
初めの方はなかなか下町の人間に受け入れられなかった。初めてアリスがこの下町に訪れたときのように襲ってくる者や、襲ってこなくともアリスの話に聞く耳持たない者、アリスの存在を認知していないかのように振る舞う者までいた。襲ってくると言っても大抵が武器らしい武器もなく飛び掛かって来るだけであったので、グランが自身の正体がばれない程度に能力を使えばアリスに害を及ぼすことはなかった。しかし、アリスはそのことにもあまり好意的ではなかったため、どうしてもというとき以外にはグランも手を出さないようにした。
アリスは粘り強く下町に訪れ続けた。アリスは下町に来て相手の話を聞くのに注力していた。そのアリスの一貫した姿勢が功を奏して、次第にアリスに心を開く者が現れ始めた。数名がそのように心を開くと、それを見ていた他の者も警戒を薄めてアリスに興味を示し始める、と数珠つなぎのようにアリスに近づく人は少しずつ増えていった。
やがてアリスは、話を聞いているうちに何を思ったのか、グランの小屋でお菓子作りをし始めた。
「練習に付き合ってね!」
笑顔でそう言うが、その笑顔とは対照的に菓子としての種類の判別のつかない、見栄えの悪い『何か』を差し出してきた。グランは不安な気持ちを覚えつつ、それを恐る恐る口にするが、いつの間にかベッドの上に寝かされていることが多かった。食べる前後の記憶は曖昧だったが、意識のはっきりしたグランにばつが悪そうに笑いかけるアリスの顔だけは良く憶えている。それでも次の日にはケロっとした様子で再び『何か』を笑顔で差し出してくる。グランもヤケクソになって、それを頬張り続けた。
そんなグランの数か月の犠牲の甲斐もあり、アリスのお菓子作りの腕は遅いペースながらも着実に上達していった。グランが初めて「美味い」と述べたときのアリスの喜びようをグランは忘れなかった。アリスは、そうとなればと言わんばかりに、その日からそのお菓子を下町の人間に振る舞うことにした。このことに何の意味があるのかと疑問を拭えないグランであったが、お菓子を初めて受け取る下町の人間の表情を見ていると、自分には決して為しえそうにない何かをアリスが目指していることは何となく分かった。
「そういえば昨日、クロエお姉様がね」
意外にもアリスの身長はあれからもさらに伸び、隣に並ぶバニラよりも高くなった。その頃から、アリスの口からよく『クロエ』という名を聞くようになった。アリスの話によると、クロエというのは次期皇女候補の第三女であり、誰に対しても容赦しない人嫌いな性格の持ち主であるらしかった。その性格のおかげなのか、城内でいびられ足蹴にされてきたアリスに対して、他の者と同じように扱ってきたわけではなさそうであった。ここ最近のアリスは、ようやく問題の言っている意味が分かってきただの、初めて作文が褒められただのと、明るい内容を話すことが多くなってきていた。そんなアリスをクロエは認めて、話を聞いてあげるようになったのかもしれない。そのクロエの影響なのか、最近になってアリスの身だしなみから細部に意識が行き届いているような印象を受けるようになった。
「はあ~。グランと出会えて、良いことばかりだわ。出会えて本当に良かった、グラン」
アリスがそのように変わっていった原動力は何なのかと想像して、やはり、そういうことなのかもしれないと考えると、グランは何とも言えない気持ちになった。アリスが初めて下町の人間に対して話した内容がフラッシュバックした。同胞たちが今なお世界から爪弾かれている状況の中で、自分だけがこんな風に暮らしていて良いのかと、グランはあのとき小屋に訪れた男の顔を思い返しながら考えていた。
下町に訪れ、アリスがお菓子を振る舞う以外に何か他に出来ることがないかと考え始めた頃、ある建物にいる女性を訪れた日のことであった。部屋の隅で壁に寄り掛かるその女性は明らかに異質な雰囲気を纏っていた。衣服もここ下町の人間とは思えないほど清潔に整っており、傍らには大きな荷物が置かれていた。やすやすと人を寄せ付けないようなオーラを纏い、こちらを注意深く窺う様子はちょっとやそっとの経験では真似できないほどの圧を感じさせ、グランは久しぶりに身構えた。そんなグランの心境もどこ吹く風でアリスは平気な顔でその女性に近づいた。
「あまり見かけない方ね。他の人から聞いてやってきました。はい、これ。良かったら召し上がってください」
無邪気に差し出された菓子パンをじっと見つめると、その女性は意外にも、見かけの印象に反して素直にそれを受け取り、一口齧った。アリスが今か今かと感想を待ち望んでいたが、その女性から放たれた言葉は予想を裏切るものだった。
「そう……貴方が、アリス・ヴェイユ、なのね」
アリスは純粋に驚き、「私も有名になったものね」と呑気な感想を漏らしていたが、グランとバニラの内心はそれどころではなかった。アリスはバニラの提案によって下町では自分の名を明かしていなかった。また、名前が仮に分かったとしても皇族の姓である『ヴェイユ』の方は、グランですらその女性の言葉を聞いてようやく思い出せたほど久しく聞いていなかった。
必然とグランとバニラの警戒心が強まる。特にバニラは今にもその女性に食って掛かりそうな気配であったが、その女性の余裕とも言える不思議な雰囲気に完全に呑まれて腰が若干引けていた。
「驚かせてしまってごめんなさい、バニラ、グラン」
女性は次に、名乗ってもいないバニラとグランの名前をも口にし、警戒心を解くに解けなくなったが、ずっと無表情であったその女性がわずかに悲しそうな表情に変化させたので戸惑ってしまった。
その女性は「ちょっと待ってて」と言って、グランたちを横切って建物の扉を閉めた。
「ここで私が今から話すことは内密にしてほしいの。良い?」
状況についていけないバニラとグランをよそに、アリスがきょとんとしながらも「もちろん」と元気に答えた。このときばかりは、アリスの無邪気さをグランは羨んだ。アリス以外の二人が何も言わぬまま、その女性は機械的な印象を与える無表情を貫いて話を続けた。
「私はミスティカ族のガーネットと言います。私は、ここで貴方たちと出会う運命にありました。これからよろしくね」
完全に話に置いて行かれている二人を差し置いて、アリスはきょとんとした顔のまま笑顔で答えていた。ガーネットと名乗った女性は緊張した様子でアリスに菓子パンのお礼を言って握手した。トントン拍子で進んでいく状況に対して、グランは思ってもいなかったミスティカ族との突然の邂逅に、言い知れぬ恐ろしい予感を頭から追い出すので精一杯だった。