第2話
文字数 3,218文字
「君はどうして、あの子の力になりたいと思ったんだい。それとも、死ぬ運命が分かっていたらそんなことはしなかったかい?」
ヨハンは挑発するような口調でロッティに問いかけてきたが、どこか独り言のように虚しく響いていた。雨の勢いに、ロッティは目を閉じる。真っ暗な世界に、ぽつりぽつりと自分の心が浮かびあがてくるのを感じた。そして、その中でも奥深くに隠されていたものを手繰り寄せた。
「運命なんて、関係ない……俺が力になりたかったのは、こんな俺でも、普通の人と心が通じ合わせられると信じたかったからだ……」
ヨハンは降り続ける雨を気にも留めないで、背を向けながらもロッティの話を静かに聞いていた。ロッティも、話すつもりのない言葉が出てくるのを止められなかった。
「ハルトを救ってやれたからっていう、自惚れがあったかもしれない。未だに『ルミエール』に戻れていない俺が、何言ってるんだって思うだろうけど……あの子の心を救うことが出来たら、そのときは俺も、ここの人たちの心に近づけると思ったからだ」
「…………それが、君の答えか」
ヨハンはそれだけ言い残すと、今度こそロッティを置いてそのまま去っていった。雨足が強くなり、ロッティは少年の遺した手紙を濡らさないように懐に仕舞った。目の前に広がる灰色の曇天が憎らしかった。動こうと思えば動けるはずであったのに、ロッティの身体は地面にへばりついたかのように起き上がることが出来なかった。雨に打たれ続け、自分の身体を雨滴が流れてくのを肌で感じながら、自分の中の許せない自分自身をこのまま洗い流して欲しいと願っていた。
そのまま眠ってしまっていたようで、目が覚めると灰色の曇天だった空はいつの間にか暗い星空へと変わっていた。身体を起こそうとすると、背中が酷く重たく感じられ、ロッティはすぐそばの川で汚れを落とそうとした。幸運にも、雨は一時的なものだったようで、川の勢いや流れる量は増しているものの、近くのロッティを巻き込むほどにはなっていなかった。自分についていた泥が流れるのを目で追いながら、その先にいるであろう少年を想像し、憂鬱な気分になった。自分はどうすれば良かったのだろうか。
がくぶると震える身体を抱きながら、帝都へと戻り、すっかり静まり返った街を独り寂しく歩いた。半日前には人垣をかき分け、喧騒を煩わしく思いながら走り回っていたことが遠い出来事であるかのように街は静かで、その静寂がロッティにはひどく冷たく、不気味に思えた。人が一人死んでも静かでいられる街がとても奇妙な生き物のように感じられた。
何度か躊躇うも覚悟して小屋に戻ってみると、扉の前でガーネットが立っていた。普段このぐらい暗くなっている時間帯にはとっくに眠くなってベッドで横になっていたガーネットは、凛とした表情でロッティのことをじっと見つめていた。その佇まいからロッティは、自分がガーネットを置き去りにしたことも、それでもガーネットはロッティを見放さずに思い続けていてくれたこともすべて理解でき、たまらずガーネットに駆け寄った。
「何でこんな遅くまで外にいるんだ。危ないだろ」
口をついて出るのは、感謝の言葉でも謝罪の言葉でもなく、この状況に相応しくて間違っている言葉だった。素直に自身の想いも伝えられない口が憎く、そんな自分がますます許せなかった。
「貴方を待ってたの……帰ってくるのが遅い」
ガーネットは拗ねたような言い方をするものの、声が震えており、苦しそうに胸を押さえる所作が儚く、悲しげな瞳はロッティを責めるものではなかったのにひどく罪悪感を抱かせた。ガーネットの声が懐かしく感じられ、ロッティはそれだけで泣き出しそうになった。悲しそうに見つめてくるガーネットの赤い瞳からロッティは目線を逸らした。
「早く寝ましょう。もう、寝て」
ガーネットの縋るような声に、ロッティも自然と小屋に入っていき、自分のベッドに横になった。泣きたいような苦しい感情が胸の中で渦巻いており、それに翻弄されるのにも疲れたロッティは、あっという間に眠りに就いた。
翌日、気がつくと外の喧騒はすっかり五月蠅くなっていた。頭を掻きながらぼうっと窓の外を眺めると、すっかり陽は高く昇って昼近くを示していた。ロッティは再びそのまま眠ろうとした。しかし、とんとんとロッティの部屋の扉が叩かれ、返事をする間もなくその扉が開かれた。
ガーネットがティーカップと橙色のジャムを塗った食パンを持って入ってきた。それらを部屋の机にそっと置き、ガーネットは無言のままロッティの足を避けてベッドに腰かけた。ロッティは机の上に置かれた食事とガーネットとを交互に見て、迷った末に、そのまま眠りこむことに決めた。ガーネットもロッティの動向に何も口を挟まず、静かにロッティのベッドに腰かけたまま本を読み始めた。二人といても感じられる静寂がロッティには心地良く、すっかり荒んだ心に染み入っていくようだった。
次第にうとうとし始め、意識が朦朧としてきたところで、扉の向こうからどたばたと騒がしい音が聞こえてきた。そして再びロッティの部屋の扉が開かれた。
「ロッティ、無事? 平気? 身体は重くない?」
捲し立てるような声と共に、ロッティの肩が激しく揺すられた。朦朧としていた意識が覚醒していき、ロッティが気怠そうに頭を持ち上げると、今にも泣きだしそうなアリスの顔があった。アリスはロッティが昨日行方を眩ませる勢いで駆けずり回っていたことを知っているような口振りだった。
「顔色は……大丈夫そうね。もう心配させないでよ!」
そう心配するアリスの方こそ、未だに本調子じゃないようで顔色はあまり良くなかった。アリスは倒れこむようにロッティに抱き着く。子供っぽく幼い印象のあったアリスだったが、身体のあちこちに柔らかいものが当たるのを感じ、ロッティは気まずく思い慌てて身体を起こしてアリスをそっと離した。何となくガーネットの方をちらりと見るが、ガーネットは何事もなく依然として本を読み続けていた。
アリスが落ち着いたタイミングで居間に集まり、ロッティはガーネットが用意してくれた食事を口に運びながら昨日起きたことを、ヨハンの名前だけは伏せて話した。気を許せばすぐに暴れそうになる感情を押し殺しながら話したロッティは、昔あの孤島に辿り着くまでロッティに何も詳しいことを言えなかったガーネットもこんな気分だったのかなと場違いなことを想像していた。
アリスは真剣な表情でロッティの話を聞いていた。時折口元に手を当て、目元に悲しそうな雰囲気を湛えながらも、最後まで取り乱すことなく静かに聞いていた。話し終えた後、ロッティはそれ以上口を開くのも億劫になり、ジャムの塗られた食パンを食べる手も止まった。沈黙が訪れ、皆が考えていることが怖くてロッティは何も訊けなかった。
「ロッティ、その子の遺した手紙、私も読んで良いかしら?」
アリスは毅然とした態度でロッティにそう尋ねた。ロッティは懐を探り、多少雨に濡れあちこちがボロボロになった手紙を取り出し、アリスに差し出した。アリスはそれを壊れ物でも扱うかのようにそっと受け取り、丁寧にその手紙を広げた。その手紙を読んでいる間も、アリスは眉一つ動かさず平静であったが、今までに見たことのない真剣な顔つきに心臓がきゅっと締め付けられた。
ひとしきり時間が経つと、アリスは手紙を胸に抱きかかえ、先程ロッティにしてみせたみたいな泣き出しそうな顔で瞳を閉じながら、天を仰いだ。深い溜息を吐きながら手紙をもう一度だけ見つめたが、もう一度瞳を深く閉じ、再び開けるとそこにはアリスの強い意思が神々しく宿っていた。
「ロッティ、このまま終わっても良いの?」