第4話
文字数 3,577文字
グランは自分の正体のことをアリスには話していた。しつこく自身の正体について訊かれ続け、それに観念しアリスに対して警戒心が薄くなり始めた頃に話したことがあった。グランはそのことを後悔していた。その時の説明ではきっと内容は分かっても実感が伴わないだろうと高を括ってしまっていた。しかし、今その時の説明が現実感を伴ってアリスの前に襲い掛かってきた。実感の持たないままこんな状況に直面させ、アリスを深く傷つけてしまったことに、グランはどうしようもなく胸が痛むと同時に、自身にまだこんな風に人を想う心が残っていることに場も弁えず驚き、自身に自嘲した。
バニラの様子を窺うと、バニラは今にも食って掛かってきそうな憎悪の目でグランを睨んでいた。グランは早くこのまま二人の下から去りたかったのだが、アリスは未だに顔を伏せて悩むように小さく唸っていた。
グランは、先ほどまでバニラを押し付けていた壁の部分を見てみた。出来たばかりであろう新品な壁にひと際目立つ亀裂が大きく縦に走っていた。この修理にはいったいどれくらいの費用と時間がかかるのかとグランはどうでもいいことをぼんやりと考えていた。
しばらくして、沈黙したままであったアリスが、ぱっと顔を上げた。
「よし、二人とも仲直りして! ほら、二人とも握手して」
アリスはバニラの手とグランの手を引き、二人の手を組ませるようにした。突然のことにグランもバニラもどうすればいいのか分からず、互いの指は絶妙に絡み合わない。
「何してるの二人とも、ほら早く」
アリスに急かされてようやく二人は互いの手を握った。バニラの顔を見るのも気まずくグランはバニラの手をじっと見つめた。つい先ほど自分のことを刺そうとした手はこの手だったのかと思うと、触れるのも憚られるほどの嫌悪感が襲った。しかし、唐突にそれらの手の上にアリスの手が重ねられ、それだけで何故だか妙な安心感が生じてきた。
「二人とも、ごめんなさいって言おう。ほら、バニラ」
「……お嬢様が言うのなら。ごめんなさい」
「気持ちを込めて!」
「……ごめんなさい」
上下関係のひっくり返ったやり取りに、グランはふとどこかで羨ましさと懐かしさを感じた。遠い昔、引き継がれる記憶の中でも遥か遠くの方で、こんな風に過ごしていたような気がした。
アリスがグランの腕をつねる。頬を膨らませ、すっかりいつものように平和そうな顔で怒りながらグランを睨みつけていた。アリスに文句を言われる前にグランもさっさと言ってしまうことにした。
「……すまん」
「相手を見て! あと、ごめんなさいって言って!」
「……ごめんなさい」
正直顔を合わせるのも不愉快でならなかったのだが、実際にアリスに促されるままバニラの顔を見て謝罪すると、膨れ上がり切っていた疲れや呆れ、憎悪といった感情が少しだけ萎んだような気がした。それはバニラの方も同じなのか、完全に納得していないまでもグランを襲ったときの敵対心に満ちた表情は幾分か和らいでいた。
「うん、これで一件落着ね! さあ、お茶にしましょ」
語尾に音符でも付きそうなご機嫌な声でそう言うと、アリスは何事もなかったかのように台所の方へ向かった。あまりにもあっさりとした態度のアリスにグランもバニラも混乱していたが、アリスが棚から皿やコップを出そうとしているところでバニラが正気に戻り、急いでアリスの手伝いをする。グランも立ち上がって何かしようとするが、アリスの思惑が読めず、結局小屋を出ていくこともアリスを手伝うこともせずただアリスの背中をぼうっと見つめていた。
アリスに流されるまま再びテーブルに着き、やがてお茶と簡単なお菓子が目の前に展開された。グランはそれらを口に運ぶ気力が全く湧かなかった。ぱたぱたと足を揺らしてご機嫌そうにお菓子を頬張るアリスは、グランの様子に気がつきその顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
アリスの瞳は、純粋そのものだった。そんな透き通った瞳に見つめられていると、まるで心の奥底まで覗かれそうな恐怖すら抱き、先ほどアリスに感じた罪悪感が再び、恐ろしいほどまでに膨れ上がった。
「お前は……お前は、怖くないのかよ!」
グランは乱暴に立ち上がり、その拍子に椅子が倒れる。それにも気づかないまま、グランは胸を苦しめる罪悪感を吐き出そうと懸命だった。
「俺は普通の人間じゃない。この世界はそんな俺が存在することを良しとしない。俺といることで、お前は死ぬかもしれないんだぞ!」
大きな声を出さないと、どうかしてしまいそうだった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。その剣幕に対してアリスは、グランの乱暴で悲痛な叫びに一切動じることなくじっと耳を傾けていた。バニラが傍らで警戒したように身構えるが、アリスはそれを片手で制した。その動作は恐ろしく冷静で、落ち着いており、感心すら覚えるような気品のある動作であった。そのアリスの落ち着きように、アリスには自分から離れていて欲しいという想いと、アリスを想う感情とがますますせめぎ合う。
しばらく沈黙が流れた。グランもそれ以上アリスに怒鳴りつけることも、落ち着いて席に座り直すことも出来ないでいた。
アリスが小屋に置いていった時計が午後四時を知らせる音を鳴らすと、アリスは一度深呼吸をし、それから頭の中の何かを手繰り寄せるようにどこか遠くを見ながらゆっくりと話し始めた。
「私、ずっと考えていたことがあるの……」
そのときのアリスの恥ずかしそうで、でも誰も笑うことなどできないような真剣な表情はグランの心を瞬く間に捉えて離さなかった。
「どうして、私はグランと会えたんだろうって……どうしてグランは、自分とは違うっていう私と友達になってくれたんだろうって。グランは、自分は違う生き物だって言ってたのに、どうしてって」
アリスは存在を確かめるようにグランの方を向いた。
「それで、グランがそう言ってくれて、今、ようやくその答えが分かった気がする。グランは……グランも、私と何も変わらないんだって。だから、私とお友達になってくれたのよ」
アリスは自信に満ちた顔をしていた。正直、アリスの言っていることがグランにはよく分からなかった。バニラが死にかけたにもかかわらず、まだ幻獣族の存在を実感できていないかのような口振りに、それは違うと否定したくなったが、アリスの語り口はそんな批判をするのも無粋な、清らかで純粋な語り口で、とても口を挟める気がしなかった。
「だって今のグラン、私がクロエお姉様やバニラに叱られたときのような顔してるもの。グランは自分のことを、幻獣族?なんて呼んでいたけど、そんなの些細なことだったのよ。だって幻獣族も、私と同じように悲しくなったり、喜んだりするんだもの。だから、初めて会ったあのときも、寂しかったから、私とお友達になることを嫌がらなかったのよ。生きることに違いなんてない、私も貴方と同じだったのよ。独りは寂しかった」
独りは寂しい、そう答えた瞬間のアリスの表情はもはや苦い過去を思い出すときのそれではなく、遠い記憶を懐かしむようであった。しかしすぐにその表情を崩し、バニラとグランを交互に見比べた。そのアリスの慈しむような眼差しに、グランは身動きできなかった。
「グランがどんな生物であろうと、たとえこの世界の法が許さなかったとしても、死ぬかもしれないなんて言われたって、私はグランとお友達でいたい。あのとき、私の孤独を救ってくれた人はグランだもの。グランのためなら、法だって、世界だって変えてみせるわ」
そこで一息ついて、アリスは椅子から立ち上がり一歩二歩とグランに近づいていく。まるで恐れを知らないその足取りは、優雅で、一切迷いがなかった。
「グラン、貴方もこの世界に居て良いのよ。世界中がそのことに反対しても、私が賛成する。だって貴方は、私と何も変わらない人間で、私の一番のお友達ですもの。貴方は決して独りじゃない」
それからその日に起きたことを、グランはよく憶えていなかった。しかしどこまでも温かい何かに包まれていく感覚と、最後に流したアリスの涙だけは、二度と忘れられそうになかった。
昼間に現れた男の話を忘れたわけではなかった。前世までに積み重ねられてきた仕打ちを忘れたわけではなかった。つい今しがた、これまでと同じようにバニラに命を狙われたことを忘れたわけでもなかった。グランは、世界の何も許してなどいなかった。しかし、それらを吹き飛ばしてしまう勢いで温かい気持ちが胸に流れ込んできたのは、本当であった。自分の命より大切なものがこの世には存在することを、グランは初めて知った。