第7話
文字数 3,651文字
母親の呼ぶ声にロッティは現実に戻ってきた。随分と眠っていたようで部屋はすっかり暗くなっていた。眠る直前まで酷かった頭痛は治まっていた。外からは、未だに雨が勢い変わらずに窓を打ち続けている。
頭を振って意識をはっきりさせる。何か大切な、それでいて胸が苦しくなるような夢を見たような気がするが、その夢の像は輪郭がぼんやりとしたままで、詳しい内容は何も思い出すことが出来なかった。それでも頭痛も治まり妙に意識もクリアになって気分が良くなっているのだから、良い夢だったのだろうとロッティはポジティブに考え、天井をぼうっと見つめる。
あまりぐずぐずしていると母親が今度は怒鳴り声をあげながら部屋の中に入ってくるかもしれない。最近口うるさくなってきたと感じるものの、大抵の場合自分が悪いということは自覚していた。ロッティは母親が怒って部屋に入ってくる前にさっさと居間に向かうことにした。
随分とこの街や家にも慣れ、ロッティも両親とは何の気兼ねもなく話せるようになった。両親も初めてロッティを招き入れた日のようなぎこちなさはもうとうになくなっており、当たり前のようにロッティに色んなものを与えてくれ、叱るときはきちんと叱ってきた。初めて叱られたときはひどく落ち込んだが、セリアがよく零す愚痴を聞いたり、他のクラスメイトたちが話しているのを聞いているうちに、どこの家でも親というのはそういう存在であるのだと理解していった。
夕ご飯を食べ終え、ロッティは居間でごろごろ寝転びながら本棚の本を眺めていた。背表紙には学び舎で聞いたことのあるような単語が混ざっていたり、世界の各所の地理のような、この街で過ごしていて役立つ機会があるのか疑問になるような本もあったりして、これらの本を自主的に読むことはまだまだないな、とロッティはぼんやりと考えていた。
そんなだらけているロッティの横で、母親は忙しそうに鞄に小物を色々と詰め込んでいた。ロッティはその母親の様子が気になって首だけ動かして母親の方を見やる。
「お母さん、どこか出かけるの?」
「そうよ、お父さんの迎えに行ってくるわ。傘持って行ってないみたいで」
「ふーん……」
昼寝をしたことで頭も冴えているので、自分も同行しようかと迷ったが、窓を打ちつける雨の音にどうも乗る気になれず、家の中でごろごろしていたい欲求に負けてしまった。ロッティは再び本棚に視線を移した。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「まあ、ふふ。行ってきます」
若干呆れたように、いつの間にか薄化粧で普段よりも目鼻立ちがくっきりした顔で微笑んだ母親は、それから数分もしないうちにすぐに家を出て行った。扉が開いたわずかな間に微かな雨の匂いが家の中へ侵入し、また頭痛がするような気分になった。そのせいで気の滅入ってきたロッティは、母親が歩いて行く様子を窓から見送ってからカーテンを閉め、自分の部屋へと戻っていった。
夕食後には街の様子や外の景色を眺めながら散歩することが多かったので、雨によって手持ちぶさたになったロッティは、鞄をひっくり返して中身を床に広げてみた。教科書やノートが数冊、筆記用具にブルーノが「これ面白いんだ。良かったら読んでみてよ」と言ってきて貸してもらった本が出てきた。セリアほどではないがロッティもなかなか活字が苦手であり、本を最後まで読み切れる自信もなかったが、ブルーノが珍しく熱っぽく勧めてきた本だったこともあって、借りてきたものであった。ロッティは能力の練習がてら床に広がった本やら教科書やらを空中でくるくると回しながらどうしようかと考えた末、ブルーノから借りた本を読むことにした。その本以外のものを能力を使って器用に鞄にしまい、本を手元に運んでからベッドで横になった。しとしとと降り続ける雨音をバックミュージックに、ロッティは静かに本を読み始めると、あっという間に窓の外の音も気にならなくなるほどその本の世界にのめりこんでいった。
母親の帰りが遅いことに気がついたのは本を夢中になって読み進め、半分ほどページが進んだときであった。我ながら随分と読んだなあと感心する一方で、母親が家を出てからそれだけ長い時間が経ったことを意味していた。
心配になったロッティは、自分も出向いた方が良いかどうか悩み、とりあえず、そんな気持ちで自分の部屋のカーテンを開けようと手を伸ばした。
カーテンに手が触れた瞬間だった。
「きゃあああああ!」
家がずしんと揺れたと同時に突然聞こえてきた悲鳴にロッティはベッドから飛び上がった。悲鳴に震え上がった手は凍り付いたかのように動かずカーテンを開けることが出来なかったが、そうしてベッドの上で情けなく竦み上がっている間も、それ以上声が聞こえてこなかったのが却ってロッティの不安を煽った。震える手をなんとか動かしカーテンを開けると、相変わらず雨が窓を打ち続けているにもかかわらず、街の向こうでは暗い夜空が赤く染め上げられていた。
火だ。火事が起きていた。しかも、それはどうやら一つの家で起こっているのではなさそうだった。街全体が不吉な炎で燃え盛っている、そんな光景が、実際に見たわけでもないのに脳裏に強烈に浮かび上がってきた。目に映る異様な光景に戸惑っている間にも、その不吉な赤色はどんどん勢力を拡大しているように見えた。
不意にこめかみに雫が流れた。それでようやく自分が汗を掻いていることに気がついた。ロッティは思い出したかのように部屋を飛び出した。
「母さん!! 父さん!!」
自分が本を読むのに集中していただけで母親たちは帰って来ている、その微かな望みに縋って居間に降り立つがそこはもぬけの殻で、扉を開けた音が虚しく響いた。時計の針は九時を過ぎていた。
窓の外からほんのりと不吉な赤い明りが部屋に差し込んできた。それに反して、不気味なほど静かな部屋に、ロッティは急速に口の中が渇いていくのを感じ、呼吸しても息を上手く吸えていないような感覚になった。胸の内があっという間にどす黒い何かで埋め尽くされ、ロッティは慌てて、靴を履くのも惜しみ裸足で外に飛び出た。そのときに目に飛び込んできた光景に、息が詰まった。
外に出てまず視界に入ったのは、暗闇で染まった路地に紛れた、黒みがかった血の色だった。家を出てすぐの所で、先程の悲鳴の主らしき女性が仰向けに力なく横たわっていた。一見外傷がないように見えるが、焦点の合っていない瞳と腹部を中心に円く広がる血を見れば一目瞭然だった。
この人物は、既に死んでいる。
そして、その死体の傍にいる『それ』を見たとき、頭のどこかが覚醒したのを感じた。
『それ』は初めて見る生物だった。四つ足のその生き物は、鼻先から伸びる鋭い角から鮮血を滴らせていた。ロッティの身長と同じぐらいの体高はある身体を身軽そうに揺らしながら、剣士が構えるかのようにその角をこちらに向けていた。『それ』は、いま、ロッティのことを新たな標的に捉えたのだと本能的に理解した。
「……ふぅぅ……」
ロッティは落ち着いて真正面から『それ』と睨み合った。不思議なことに恐怖心はほとんどなく、頭のどこかでカチッとスイッチが入ったかのように、冷静に『それ』と対峙することに意識が集中していた。
『それ』は威嚇するように低い呻き声を上げていたが、やがて自身がゆっくりと宙に浮かび始めていることに気がつき、高い鳴き声を上げ始めた。宙で四つ足をじたばたさせるが身体はどうにも地面に降りる気配はなく重力に逆らい続け、そのまま瞬く間に無慈悲に上空へと急上昇していった。ロッティはそこでふっと意識のどこかで力を緩めると、『それ』はゆっくりと地面を目指して落ちてきた。そして、小さな地面の揺れとドシンという重たい音と共に地面に叩きつけられ、横たわった『それ』は弱々しい呻き声を上げて手足をじたばたさせるも、すぐに動かなくなった。
街の中心地からは悲鳴が絶えず聞こえてきた。強かった雨も無力で、火の勢いは衰えそうになかった。そのせいで日中よりも暑く、雨水の蒸発によって湿気が酷くなっていた。それでも、ロッティは何故か、身体が不思議と軽く感じられた。スイッチが入った頭は、依然としてロッティを冷静にさせ、燃え盛る街を観察するように眺めた。
「母さん……父さん……」
この街は付近で魔物がほとんど現れたことのない地域にあり、そのため魔物への対策はたかが知れていた。今も街の中心部に近い方からは微かな悲鳴が響き続けていた。
ロッティはざわつく胸をに手を当てて赤い夜空を見つめながら、やがて火が上がり悲鳴の飛び交う街中に飛び込んでいった。
——街での生活は居心地の良い夢であった。
——自分は新しい家族を見つけ、良き友達に恵まれ、この街の一員になれたのだと思えた。
——掴んだと思ったその世界は、普通の人間ではない自分にとって違う次元の楽園であったのだと、酷く思い知らされた。