第5話
文字数 3,107文字
ロッティは自然とそう質問していたが、そんな質問をしている自分自身に驚いた。何故下町の人たちのところへ訪れていない人間がそのことを気にするのだろうと、ロッティは軽い自己嫌悪に陥った。アリスも不思議そうな顔でロッティを見つめていたが、やがてふっと表情を和らげ微笑んだ。
「大丈夫、皆にも同じ話をしてきたから。皆寂しそうだったけど、でも必ず戻って来るって言ったら皆快く送り出してくれたの」
そう話すアリスの表情はとても優しかった。それからアリスはわざとらしく慌ただしそうにして、皆の部屋を訪れて回り、最後に居間で自分の荷物をまとめると、「じゃあ私、そろそろ行ってくるね」と、まるでここが自分の家だとでもいう風にアリスは皆に手を振った。皆の顔を見渡して頷いたアリスは、清々しい顔つきでバニラを連れて小屋から旅立った。バタンと固く閉ざされた扉を、ロッティはしばらく呆けたようにじっと見つめていた。
翌日、ロッティは昨日までと同じようにだらだらと起床し、ガーネットに見守られるようにして午前中を自堕落に過ごした。昼に差し掛かり、窓から差し込む日差しが強くなり、それを鬱陶しく感じたロッティがベッドの上で少しでも日の当たらない部分に移動していた。ガーネットも相変わらず、ロッティの傍らで椅子に座って静かに本を読み続けていた。その横顔を見つめていると、ロッティは何故だか感謝の気持ちと同時に、何とも言い難い違和感を抱いた。その視線に気がついたのか、ガーネットもちらりと横目でロッティのことを見る。
「ロッティ……どうかしたの」
ガーネットは瞳を赤くさせながらもなお、ロッティのことを不思議そうに見つめていた。初めて出会って、旅を始めてからしばらくは合わせることのなかった瞳は、もうすっかり合わせてくれるようになっていた。真っ赤な純粋な瞳が、ロッティに寄り添おうとしてくれている。しかし、ロッティもそう問われて改めてこの違和感が何なのかを考えてみようとするも、やはり上手く言葉で説明できそうになかった。
「いや……何かな、違和感があって……」
「……私のことで、というわけではなさそう……私にも分からない。でも……どんなことを感じていようとも、ロッティは自分のことを責めないでね」
ガーネットは辛そうに表情を歪めてそう言うと、ロッティのことをそのままじっと見つめてきた。その瞳には混じりけのない純粋な感情が表れており、ロッティは気恥ずかしくなり思わず視線を逸らした。そのまま何事もなかったかのように再び時間は静かに過ぎていった。
しばらくすると、グランがつまらなそうな顔をしながらロッティの部屋に入ってきた。グランの手にははじきやカードに、先日までロッティと一緒になって彫っていた竹や小刀があり、それらをロッティの部屋の床に広げた。そのまま何も言わずにその場に座ると、おもむろに小刀で竹を彫り始めた。すぐ傍らでそんな作業を始めたグランをガーネットが若干鬱陶しそうにちらちら見ていた。
「グラン、どうかしたの」
「アリスも来ねえし暇なんだよ。ロッティもいつまでも部屋に籠ってるから来てやったんだぞ、ありがたく思え」
グランは恩着せがましい言い方をしながら、竹を削って生じたカスを丁寧に集めて机の上に運んでいた。部屋に入ってきた直後のグランはひどくつまらなそうにしていたが、作業を進めていく内に眠そうにしながらも表情はどこか柔らかくなった。
ロッティは何となく窓の外を眺めた。相変わらず街中の人通りは多く、忙しなさそうに街は動いていた。しかし、そこからでは見えない下町はそうではないのだろうなと想像すると、途端に心の中で引っかかりを感じた。
今日はアリスは来ない。その理由も、別に命の危険に晒されているからではないはずなのに、ひどく心が落ち着かなくなった。しかし、久し振りに生じた心の変化は、すっかり凪いでいたロッティに何かを与えた。
「ガーネット、それにグラン……俺、ちょっと散歩してくる」
ロッティはその何かに突き動かされるようにベッドから起き上がった。ガーネットもグランも虚を突かれたように呆然としていたが、ガーネットはすぐにロッティの中に生じた何かを酌んだのか、ふっと表情を和らげた。
「私も行く。グラン、留守番頼んだよ」
ガーネットも静かに立ち上がると、呆けたままであるグランの「どういうことだよ?」という声も聞かずにそのまま部屋を出た。
ロッティの足は自然と下町の方へと向かっていた。ガーネットも何も言わずにロッティの後をついて来ていた。下町は、アリスが来ないと分かっているからなのか、ひどく寂しい静寂に支配されていた。人の気配はするのだが、どこにも人の姿がなく、寂れた雰囲気を肌で感じながらロッティはアリスの存在の大きさを改めて認識していた。
誰かの話を聞いてみたい。ロッティが何となくそう思いながら下町を巡るように歩いていると、ちょうど亡くなった少年が暮らしていた建物の周囲に屯する三人の集団を見かけた。ロッティは止まりそうになる足を必死に動かした。
「こんなところで……どうしたんですか」
ロッティの質問に三人は振り返り、一様に驚いたような反応を示した。しかし、すぐに浮かない顔になり、互いを見合っては落ち込んだように俯いた。
「いやな……ここにずっとふさぎ込んでいた男の子がいたんだけど、その子が先日……なあ?」
最初に口を開いた男がそこで辛そうに言い淀むと、他の二人に助けを求めるように視線を送るが、二人も困ったような悲しいような表情を浮かべながら曖昧に口を濁していた。
「俺たちみたいな、な? ちょっとばかし大きくなっちまったくせに何もしていない、どうしようもないような奴がーってのは珍しいことじゃないんだけどよ、あんな小さな子がなんて……な?」
「だから俺たちに振るなって。でも……皆で交代制で見守ってたし、アリスお嬢さんだって見てくれてたんだけどな」
三人の気まずそうに、だけど不愉快そうにではなく、ただひたすらに辛そうに語るその様子は、少年がこの下町でどんな風に接せられてきたのかを物語っていた。そしてそれは間違いなく、アリスの影響だろう。三人の様子がアリスの想いの強さの証拠のような気がして、ロッティの胸の内がますます辛くなる。
「俺も……ここの子のことは知っています。ですので、あまり気にしないでください……」
ロッティがやっとのことでそう言うと、三人はロッティの顔を見て、何かを感じ取ったように再び互いに気まずそうな顔を見つめ合わせ、そのまま押し黙ってしまった。一人の男が少年のいた方の建物の方をくいっと指差して、「じゃああんたもやって来たのか?」と尋ねてきた。ロッティはその質問がどういう意味なのか分からず首を傾げてみせると、「じゃあ、あんたも行ってやってくれ」と答えた。
ロッティはガーネットの顔を確認してから、一緒に建物へと入っていった。扉を開けた瞬間に目の前に広がった光景に、ロッティははっと息を呑んだ。
少年がそれまでいた部屋の隅にいくつもの花や草が積み重ねられていた。少年を悼むお供えのものであることはすぐに分かったが、それらがあまりにも多すぎて、まるで少年が草花の山に生まれ変わったようであった。ロッティは瞼がわななくのをぐっと堪え、その草花の山の前で膝をついて手を合わせて拝んだ。その山を少年の生まれ変わった姿だと見立てて、ロッティはひたすら祈り続けた。言葉で表しきれない懺悔の気持ちと、死後の安らかな世界をひたすらに願う気持ちとを、手の平に込めながら少年のことを想った。