第7話
文字数 3,254文字
グランが扉も開けっ放しなロッティの部屋に入ってくると、ロッティが読み終えた料理ノートを同じようにぱらぱらと捲っていた。時折苦い顔をしながらも、グランはそれらを懐かしむような優しい眼差しで眺めていた。
「それだけアイツも本気だってことだ……まあ何せ、俺を受け入れたぐらいだからな、アイツは。生半可な覚悟じゃねえよ」
グランは先ほどロッティの能力を見たときと同じように、感心したようにそう言ったが、ロッティにはまるで違うように聞こえた。決して責め立てているわけではないグランの言葉が、針のように自分の心に深く突き刺さった。ロッティは、改めて自分の浅はかさと愚かさを自覚した。アリスの強さの源に、ロッティの心は圧倒されていた。冊子を持つ手が震えていた。
微笑ましい顔で料理ノートを眺めていたグランだったが、それを読み終えふと顔を上げロッティの顔を見ると、途端に険しい顔になりロッティの肩を掴んだ。
「お前、もしかして自分が甘かったとか思ってるのか? そんな風にして自分を責めるんじゃねえぞ、舐めんじゃねえぞ」
グランはロッティの肩を揺らした。ロッティは無気力に揺られ、アリスのノートに視線を落としたままグランの言葉を聞いていた。
「お前はお前で、今までリベルハイトの奴らに一泡吹かせるためにやって来たんだろうが。だったらお前もこれからだろうが。お前がリベルハイト相手にドンパチやってる間もずっと頑張ってきたアリスと比べてんじゃねえぞ」
グランの言い方はどこまでも厳しくほとんど怒っているような声だったが、決してロッティを批難したり突き放したりするようなものではなかった。
「アイツだって、何回も失敗してきた。誰かが死ぬのを止められなくて泣いた日もあったし、俺に死ぬほど不味いもん食わせてきやがった日も何日も続いた。それでもアイツは、自分の理想のために歩みを止めなかった。お前は……これから来るっていう、最悪の未来を押しのけて、それからなんだろうが。お前もアイツに続くんだろ。だったら、アイツの言う通り、こんなところで止まんじゃねえぞ」
グランの言葉が、頭に響き続けた。ロッティはそれらを分解して、一つずつ咀嚼していった。そうすることで、ようやく手の震えは収められ、それに伴って心の揺れも少しずつ収まってきた。ロッティは一冊一冊丁寧に箱の中に戻していった。
ロッティはどうにか立ち上がり、律義にも居間で自分が使っていた椅子を戻し、料理ノートも台所の方へ戻した。そのまま部屋へ戻ろうとしたが、ふと居間に居座り続けるグランを振り返る。
「グラン……アリスはどうして、下町の人たちを救おうとしたんだと思う」
先ほどガーネットにした質問をグランにも尋ねてみたが、グランはにやりと不敵に笑うだけで、特に何か返事をする気はなさそうであった。しかし、ロッティも諦めて部屋に戻ろうとしたタイミングでグランがようやく答えた。
「そんなにアイツの気持ちが知りたきゃ……同じことをしてみれば良いんじゃねえか?」
ロッティがもう一度振り返ると、グランが悪戯する子供のように悪い笑みを浮かべていた。ロッティはその笑みに小さく笑い返し、そのまま部屋に戻っていった。
翌日、ロッティは久し振りに朝早くに起きた。早速ロッティはアリスの料理ノートを居間で広げ、アリスのメモと共にレシピを眺めながら自分にも作れそうなものを探していく。真剣な様子でアリスの料理ノートを捲るロッティを見て、くすっと笑いながらもガーネットはロッティの隣に座った。一番遅く起きてきたグランは、欠伸を掻きながら居間に入ってくると、真っ先に目に飛び込んできたロッティたちの様子に一瞬ぽかんと口を開け、「ま、まじで作るのか?」と声を震わせていた。そんなグランのささやかな抵抗も無視してロッティはバナナケーキを作ることに決め、早速材料を買いに出かけた。
買い出しから帰ってくると、ガーネットが台所でエプロンを着てまで準備しているようで、グランもテーブルの席に着いて何故か偉そうに踏ん反り返っていた。
「しょうがねえから味見してやるよ」
グランは鼻の穴を大きくしながらロッティを睨みつけた。ロッティはありがたくそのご厚意に甘えることにし、早速作り始めることにした。台所で自分よりも先に準備を済ませているガーネットに監視されながら作業をするのは多少居心地が悪かったが、ロッティはなるべくガーネットの視線を気にしないようにしてアリスの料理ノートを見ながら作業を進めた。
悪戦苦闘しながらもやっとのことで完成したものは、形だけはそれなりに悪くなかった。グランも「ほう、見た目だけは悪くないな」とやはり偉そうにしながら口に放った。口をもぐもぐと動かしながら徐々にグランの首が傾いていき、最後に口の中の物をごくりと飲み込むと、「まあ、アイツの最初のときよりはうめえよ、うん」と要領を得ないコメントをされた。試しにロッティも余ったバナナケーキを口にするが、自分の味覚が可笑しくなったのかと疑わしくなるほど味がしなかった。
「今度は私も焼いてみるから」
ロッティと同じく余りのバナナケーキをもきゅもきゅと食べながらガーネットが張り切ったように袖をまくる。ロッティも気を取り直してもう一度バナナケーキに挑戦する。途中、ガーネットの作業を横目で観察して、参考にしながら同じように手を動かしてみる。そうして、先程よりも慎重に作ったバナナケーキは、先程よりも茶色い焦げが目立った。グランは自棄になったようにロッティからひったくるようにしてそれを口に放り込むと、途端に苦い顔になり、噛み辛そうにゆっくりと口を動かしながら、やがて飲み込むと「まださっきの方がマシだな」と自分を納得させるようにしきりに頷いた。ロッティも余ったのを口にしてみるが、ケーキの味は少なくともしなかった。隣で自分の焼きあげた物を食べているガーネットはほんのりと幸せそうな顔をしており、このときばかりは横でそんな風にされることに苛立ちを覚えた。
その後も何度もバナナケーキの作成に挑戦し、グランの顔が七面相張りに変化しながら、昼をとっくに過ぎ、普段だったらアリスがそろそろやって来るという時分にようやくグランも「悪くねえな」と唸らせるほどの物が出来た。ガーネットも、先程自分の物を食べたときと同じぐらい美味しそうに食べていた。ロッティは達成感と疲労とで一気に力が抜けていき、テーブルの席に力なく座り込んだ。ぼーっと天井を見上げて、部屋の中に充満している甘ったるい匂いを嗅ぎながら、自分も充分なバナナケーキを焼いたことを実感していた。
「それで、どうするんだよこれ。持っていくのか?」
散々味見に付き合ってくれたグランが、パクパクとロッティが大量に余らせた失敗作を口にしながら、成功したバナナケーキの山を指差して尋ねてきた。
「……本当に持って行って良いと思うか?」
ロッティが自信なく答えるが、グランはそれを鼻で笑い飛ばした。
「この失敗作のはやめろよ。俺が食うからな」
グランはにやりと不敵に笑ってそう言うと、再び余らせた失敗作を次々と口に放り込んでいった。ロッティはようやくのことで成功したバナナケーキの山を見る。それでもアリスの物より数も少ないし、味も劣っているに違いない。そんなものを今更持って行って本当に意味があるのかと、ロッティはこの期に及んで尻込みしてしまっていた。バナナケーキの山が急に恐ろしいもののように感じられた。
「せっかくだからおすそ分けしていきましょう」
ガーネットがその山のうちの一つを大切そうに手の平に乗せながら、そっとロッティの口元まで運んできた。ロッティは目の前にやって来たそれに戸惑い、迷いながらも、ゆっくりとそれを口にした。手の平に何もなくなった間近にあるガーネットの手の背後から、ひょこっとガーネットの顔が覗き込んでくる。そのガーネットの視線に、ロッティも渋々頷いた。