第9話
文字数 3,401文字
「お帰りなさい。貴方もお疲れ様ね」
「あ、ああ、ただいま」
ロッティの帰宅に気がついたガーネットはちらりとだけ顔を上げてロッティの顔を確認する。決して笑顔で迎えてくれるわけではなく、むしろ無表情のままなのだが、それでも何となくガーネットのロッティを労おうという気持ちは伝わってきた。出会った初めの頃の、ロッティを何とも思っていないような無関心ぶりだったのと違って、今では僅かにではあるが変化が生じてきて、こちらを自然に気遣うような雰囲気が生まれていた。そのせいで、かえってロッティは緊張してしまった。
言葉を交わしてから一向に動く気配のないロッティに、本を読んでいたガーネットが再び顔を上げる。
「どうか……したのかしら」
ガーネットの声がわずかに上ずっているように聞こえたのは、気のせいかもしれない。それでも、ガーネットに余計に考えさせてしまったような気がして、ロッティは思い切って背中に隠していた物を前に差し出す。
「これ、良かったら使ってくれ」
直接見るのも何だか憚られて、ロッティは顔を背けてしまう。本をぱたりと閉じる音がしたと思うと、そっと立ち上がる気配がして、ロッティの手から重みが消える。おそるおそるガーネットの方を向くと、ガーネットはロッティからのプレゼントを持ち上げて不思議そうに見上げていた。
「これは何かしら。開けても良い?」
「ああ、もちろん」
ロッティの心中は相変わらず緊張したままだが、対するガーネットは何も気にしてないかのようにするすると紐をほどき、封を開ける。わずかにガーネットの口から息を漏らす音が聞こえた。
「それは、カーユって植物の油を閉じ込めたものらしい。香りには健康の促進とストレスの解消の効果があるらしい」
緊張のせいで、ロッティは早口に捲し立ててしまった。上手く伝えられなかったかもしれない。しかし、そんな心配は杞憂だったようで、ガーネットは優しい眼差しでプレゼントの瓶を見つめていた。
「貴方の想いも、きちんと伝わってる……ありがとう、ロッティ」
ガーネットが真正面からロッティに向き合ってそう言った。ガーネットがそんな風に真っ直ぐに向き合ってくることが珍しく、それ故にガーネットのその言葉には嘘偽りのない純粋な気持ちが表れているのだとすぐに悟った。
誰かを想ってプレゼントをして、真っ直ぐに感謝の気持ちを伝えられる、そんな経験を初めてしたロッティは、その日、それ以降ガーネットの顔をまともに見ることが出来ないまま一日を終えた。
ガーネットと思しき人物の評判が上がる声を耳に挟みながら、フルールの手伝いに協力する日々がしばらく続いた。ガーネットから聞いたように、フルールが危ない目に遭わないようにと見守っていたのだが、特に危なくなる気配もないままただひたすらフルールが街の人に奉仕していくのを支え続けていた。
「貴方は、ロッティさん、でしたよね? 今日もありがとうございます」
フルールの協力をしていくうちに、ロッティの顔と名前を覚える人も現れ始めてきた。ロッティとしては仏頂面でフルールの後ろについているだけのつもりであったため、初めてそんな風に話しかけられたときはロッティは内心驚き、まともに返すことが出来なかったのだが、今までにない感覚が胸の内に生じているのをロッティは気づいていた。
「ロッティ様のことを知ってくださる方が増えてきましたね」
「そうみたいだな」
「このまま本当にシリウスで暮らし続けるのはどうでしょうか。きっと街の皆様も喜ぶはずです」
「暮らし続けはしない……と思うけど。でも、これからどうなるんだろうなあ」
「……?」
そんなたわいもない話をしながら、今日も一日フルールの手伝いが終わり、フルールを家にまで送り届けているときであった。
「ふうん、貴方がロッティ君なのね」
背後から若い女性の声で自分の名を呼ぶ声が聞こえて、ロッティは心の中で身構えながらそっと振り向く。
両手が買い物袋か何かでふさがっている長髪の女性が、ロッティの方を見てニコニコしながら立っていた。外からやって来た人だろうか、大きく開かれたアーモンド型の瞳に背の高い鼻をした綺麗な顔立ちに反して、服の上に光沢を帯びた鎧を纏いぴたっと足に張り付くズボンを履いている。所々に土埃らしき汚れは見えているが、どこにもほつれや傷のようなものはなかった。
「貴方は、シャルロッテ様ですね。お久しぶりです。二百日以上振りでしょうか」
ロッティと同じように後ろからの声に振り向いたフルールは、その女性をシャルロッテと呼び、これまでに何度も見たのと寸分違わぬ仕草で綺麗にお辞儀した。
「おーフルールちゃんもお久しぶりー」
シャルロッテはたっぷりと膨れあがった袋を持っているにもかかわらず軽々と持ち上げて器用に手を振る。小さく揺れる袋の中からカランコロンと金属同士のぶつかる音が鳴った。
「フルール、知り合いなのか」
「ええ、お会いするのは二百日以上振りになりますが」
「それは質問の答えになっていないというか……」
ロッティはひとまず、いつまでもお辞儀しているフルールの顔を上げさせた。
「それで、確かに俺はロッティっていうけど……貴方は、シャルロッテさん、でしたっけ?」
シャルロッテはロッティの問いには答えず、じろじろとロッティの顔を見つめた。一見していかにもな笑顔を浮かべて愉しそうな雰囲気を醸しているが、シャルロッテの瞳からはいまいち感情が読み取れず、ロッティはこれまでに味わったことのない種類の居心地の悪さを感じていた。
しばらくして何かしら納得がいったのか、シャルロッテは目を細めて小さく笑った。
「……ふふ、ごめんね、じろじろと見ちゃって。うん、私の名前はシャルロッテ。有志による慈善団体『シャイン』の副団長をやらせてもらっているよ」
柔和に笑ってシャルロッテはもう一度軽々と袋を持ち上げてみせた。持ち上がった腕の袖に真ん中に白い太陽のようなマークが刻まれた青い盾の形をした紋章が施されていた。それが団体のエンブレムなのだろう。
慈善団体『シャイン』の噂は、『ルミエール』にいたときロッティもよく耳にしていた。慈善団体と銘打っているように、元々は家族や故郷を失ったような人たちや身寄りのない老人を対象に慈善活動を行なっていたが、最近では他の冒険家団体や傭兵たちと同じように武力を必要とする仕事も請け負っているはずであった、とロッティは薄れかけて覚束ない記憶を手繰り寄せた。
そのような経緯があった『シャイン』の副団長であると、シャルロッテは自己紹介した。ロッティの見立てでは、自身より少し年上そうなだけでシャルロッテはまだまだ若そうである。余程の手練れなのだと、ロッティは予想した。
「あれ? 君って確か、『ルミエール』のメンバーじゃなかったっけ?」
不思議そうな面持ちでシャルロッテは小首を傾げた。そんな態度とは裏腹に、突然出てきたその団体の名前に、ロッティは冷や水を浴びせられたような気分になっていた。
「……誰からそんなことを訊いたんですか」
「いやいや、けっこう有名だよ? 『ルミエール』で腕っ節の良い若い剣士がいるって」
自分についての噂なのだから自覚しにくい、というのを差し引いてもロッティには衝撃的なことであった。よもや自分の話が持て囃されていることなど、露にも想像していなかった。途端に薄ら寒い何かが背中に走ったのを感じて、震えた。
「……そうだったのは知らなかったけど、でも俺にはもう関係ない話ですね」
「んーどうして?」
純粋そうな面持ちでシャルロッテは首を反対に傾げた。
「俺はもう『ルミエール』を辞めましたから……フルール、行こう」
それ以上追求されるのも面倒だったので、多少礼儀が悪いことを承知しつつもロッティは黙ったままでいるフルールの肩を掴んでさっさとその場を去ることにした。引っ張られながらもフルールは「ああ、シャルロッテ様、失礼します~」と最後まで丁寧な態度を律義に貫こうとしていた。ロッティに置いてかれたシャルロッテが「あ、ちょっと待ってってば~」と喚いているのが聞こえていたが、悲哀さを感じさせない明るい声のままだったのでロッティは構わずに去ることにした。