第3話
文字数 2,959文字
「私は、そんなのはいや。ここで終わったら、私の今までしてきたことが間違いだったって認めることになるもの。私は決して間違っていたなんて思わない。だから私は、ここで止めない」
アリスは静かに立ち上がり、壁の方で暇を持て余しているようだったグランの傍らに寄った。アリスはちらりとグランを見上げるが、鼻をすんと鳴らして再びロッティの方に視線を戻す。
「至らないところばかりで、下町の人たちの力になれてないんじゃないかって思うこともある。今回のことは私も悲しいし、もっと違う方法を取ってれば結果は変わったのかなって悩まずにはいられない。でもね……私はそれでも諦めないの。もしここですべてが無意味だったと放り出してしまったら、それこそ私はあの子をただ死なせただけになってしまうもの。私があの子の死を無駄にしないためにも……ううん、あの子が生きていたおかげでこんなことが出来たって言えるようにしたいの。あの子を助けたいと思った気持ちを、このままで終わらせないためにも」
アリスはそっとグランの袖を握る。まるでグランから勇気をもらうみたいに、その袖を掴むアリスの手は少し震えていたが、それでもアリスは凛とした表情を崩すことはなかった。
「どんな結果になろうとも、私の考えは変わらない。私は、グランに生きて欲しい。ガーネットにも、ロッティにも。でも、同じように、下町に生きる人たちにも、城で偉そうにしちゃってる皆にも、私のことを憎んでいる人にも……死にたくなるほど生きるのが辛い人にも、皆に生きていて欲しいの。だって、人が生きることに違いなんてないんだから。どの人も同じように苦しんで、悲しんで、そして喜んで……そういうことを繰り返して、私たちは生きているんだから」
アリスの言葉一つ一つが、ロッティの鈍化していた頭をそっと癒していくような力を持っていた。すっとこれらの言葉が身に染みるのは、ロッティたち未踏の大陸出身の者をどうにかしたいというアリスの願いが本物であるからだと確信した。アリスの心はどこまでも広く、どこまでも綺麗で眩しくなるほど純真だった。
「私たちは違う人間で、考え方も、好きなものも、嫌いなものも……備わっている能力も、何もかも違う。でもね、それって当たり前のことなの。そして、どんなに違うところがあったとしても……私たちは生まれて、時に悩んで、時に喜んで、時に悲しんで、時に怒って……それだけは、絶対に違わないんだよ。理由は違ってても、そんな風にして生きることに違いなんてないんだよ」
そこで唐突にアリスは身体をよろめかせた。瞬時に傍らのグランがアリスの身体を支える。二人は互いを見つめ合い、それまでアリスが演説で醸していた神々しい雰囲気など何もなかったかのように、朗らかに微笑み合った。その何気ないやり取りは、まさにアリスの願いが具現されている光景だった。
ロッティは、アリスが何故その情熱を絶やさず燃やし続けられているのかを理解した。アリスが少年の死を悼んでいながらも、それに挫かれずに前を向けるのは、グランの存在によるものであることを、目の前で幸せそうに微笑み合う様子に気づかされた。ロッティはふと、ガーネットの方をちらりと見る。
ロッティもきっと同じだった。三年前、エフのいた孤島にてこの世界の全てを知ったあの日から未だ見えてこない答えを求め続けられたのは、まさにガーネットがここまでロッティのことを信じてくれたからなのだと、唐突に悟った。孤独を慰めてやりたい、寄り添いたいと思った旅のパートナーが、いつのまにか自分の中で大きな存在になっていることに、ロッティはこれまで散々味わってきた苦しさや悲しみとは明確に違う何かで胸がいっぱいになって、息が苦しくなった。
アリスに「今日は大丈夫だから、ロッティこそ今日は休んでなよ」と言われてロッティはガーネットに見守られながら寝かしつけられていた。アリスはバニラと、今回はグランを連れて行こうと言っていたので身に危険が迫るようなことはないだろうが、ロッティの胸中は未だにもやもやしていた。アリスの覚悟の深さに触れたものの、それでもアリスの今後のことを想うと胸が塞がれ、救えなかった少年への未練も断ち切れず、手紙に込められた少年の叫びがまるで聞こえてくるようで、脳にこびりついて忘れられそうになかった。
「……ロッティ、アリスの様子を見に行ってきても良いよ」
ベッドの傍らで椅子に座っていたガーネットが、静かにそう言った。顔を見上げると、ガーネットは赤い瞳でロッティのことを優しく見つめていた。
「そうすれば、多分、ロッティの傷も少しは癒えるかもしれない……少なくとも、私には……」
ガーネットが膝の上で手を擦り合わせながら言い淀んだのを見て、ロッティはヨハンの言葉を思い出していた。少年の死を知っていてなお命を懸けることの出来なかったミスティカ族、その言葉は、ガーネットもヨハンと同様の気持ちを抱いているかもしれないことを示していた。
ロッティは重たい身体を起こして、逡巡するもそっとガーネットの手を取った。
「ガーネットが気に病むことじゃない。これは……俺の責任なんだから」
ロッティの言葉に、ガーネットは俯いたまま何も答えなかった。
ロッティはベッドから下り、身体が問題なく動くことを確認してから、部屋を出て行った。後ろから「気を付けてね」という言葉が控えめに聞こえてきたと同時に背後で扉が閉まった。
アリスの様子を窺いに出てきたのは良いが、安静にしていろと命じてきたアリスに外出していることがバレては元も子もない。普通の人より視力が良いとはいえ離れたところから見えるかは些か不安ではあったが、アリスにバレずに済ませることを優先させようとし、ロッティは下町近くの高い建物を探して回った。すると、ちょうど時計台のように他の建物よりも背の高い建物が見えて、ロッティはそこを目指した。
その建物の前には、まるで誰かを待っているように立っている人物がいた。その人物はロッティの存在に気がつくと、わざとらしく手を振ってきた。
「来ると思っていた、ロッティ」
ロッティが近くにやって来ると、その人物、ノアは相変わらず顔色一つ変えず険しい顔で出迎えた。その台詞で、ロッティがどういうつもりでここに来たのかをノアも知っているのだと確信した。
ロッティが上に登るよう顎をしゃくらせると、ノアは何も言わずにロッティの先を行った。何に使われていたか見当のつかないボロボロな建物を登っていき、時計台のときのように屋上に辿り着くと、規模は小さいながらそれでも下町と、下町から外れて整った道の先に存在する大きな門までが一望できた。二人はどちらからともなくその場に腰かけた。高いところに登ると、地上では感じられなかった風がここぞとばかりに吹いてきた。下町の方へ目を向ければ、それまで不在だったアリスの登場に下町の人たちがいつも以上に愉しそうに盛り上がっているのが小さく見えた。