第1話
文字数 2,810文字
ピリスはどの子供にも分け隔てなく接し、平等に愛情を注いでいた。子供のワガママにも嫌な顔をせずに対応し、豊かな自然の中で伸び伸びと育てていた。そんなピリスを子供たちも慕っていた。
「今日は何をしようか、皆」
ピリスがいつものように子供たちに呼びかけると、部屋のあちこちで思い思いに遊んでいた子供たちは一人を除いて一斉にピリスの元に駆け寄った。集まった子供たちは、「今日は何して遊ぶの?」とか「今日はいい天気だから外に出たい」と、それぞれが嬉しそうに高い声で意見を出し、それらをピリスも笑顔で受け止めていた。ピリスはうんうんと頷きながら子供一人一人の顔を眺め、最後に、呼びかけに応じずに、部屋の隅でぽつんといじけたように座っている子供にも呼びかけた。
「ロッティ君、君もこっちに来なさい。皆と一緒に遊びましょう」
「先生は」
昼寝の時間になって、静かにピアノを弾いているピリスにロッティは訊いた。他の子供たちは午前中に遊び疲れ、昼食が終わるとともにすぐに寝始め、すうすうと健やかな寝息を立てて眠っている。どの子供も満たされたように穏やかな表情をしていた。
「なんだい、ロッティ君」
ピリスはピアノの鍵盤から目を逸らさずに、潮騒の雰囲気に合う、耳心地の良い音色を奏で続けていた。窓から差し込む日差しがピリスを照らし、銀縁の老眼鏡が光を反射していた。その日差しの眩しさからなのかピリスは目を細めている。
「先生は、僕のお父さんじゃないんでしょ?」
そう尋ねるロッティの声はわずかに震えていた。
「残念だけど違うねえ」
「でも、先生は僕に名前をくれた」
「ああそうだね。ロッティ君は私にとって息子のように大切だからね」
「大切だと、名前をくれるの?」
疑問の尽きないロッティにピリスは嬉しそうに頷いた。それでもピアノを弾く手は止まることなく、穏やかな音色を室内に響かせ続けていた。不思議とロッティもその音色を聴いていると心が落ち着いていった。
「大切な相手は、名前で呼んで大切にしたいものだよ。それに、名前がないと色々と不便だからね」
ピリスの答えに、ロッティは見るからに眉を下げて、考える素振りを見せた。それからしばらくして、ロッティは難しい顔をしたままピリスに訊いた。
「でも、それじゃあ……僕の両親は、僕のことが大切じゃなかったってことなの?」
ロッティは言葉を選ぶように、ゆっくりとその先を続けた。
「何で僕の両親は、僕のそばにいないんだろう……名前も、先生がつけてくれた名前しかないし……」
最後の方は声も尻すぼみになり、ロッティはそのまま黙ってしまった。頭の垂れた黒い影が室内に伸び、ピアノの音色が変わらず穏やかに響くも、外から吹き付ける風が窓をガタガタと不気味に鳴らした。
ピリスはピアノを弾く手を休めると、ゆっくりとロッティの方に身体を向けた。部屋は静寂に包まれ、子供たちの寝息が平和そうに聞こえてきた。ロッティの瞳に、相変わらず優しそうに微笑むピリスの顔が綺麗に映り込む。ピリスの赤色の瞳が、まっすぐロッティの姿を捉えていた。
「良いかい、ロッティ君」
ピリスは、ロッティの肩に手を置き、親が子供に大切なことを教えるときのように優しく話し始める。
「両親がいるから幸せ、いないから不幸せ、そういうわけじゃないんだ。大切なのは、今の君がどう感じているか、ただそれだけなんだ」
そこまで言って、ピリスの表情は僅かに曇った。
「僕は、まあ、新しい家族が迎えに来るまでの間しか面倒を見てあげられないけれど、いつでも愛情を注ごうと頑張っているし、いつでも君たちのことを見守っているよ」
「…………先生は……先生は、僕のこと好き?」
ロッティの不安そうな問いかけに、ピリスはゆっくり頷いた。細められた瞳がさらに細くなった。
「ああもちろんだよ。そんなこと心配するまでもないよ」
ピリスはそっとロッティのことを抱きしめた。その動作から温かさが伝わってくるようで、ロッティは目の奥が熱くなり、自然と涙が零れてきた。ピリスはそれから、優しくロッティの頭を撫で始めた。温かな安心感と幸福感に包まれたロッティは、やがて他の子供たちと同じようにすうすうと寝息を立てて眠りについた。ピリスはそのままロッティを抱え、皆の昼寝している場所まで運び、それからまたピアノを弾き始めた。
窓から差し込む日差しが鍵盤を明るく照らす。ピアノの音色が、窓からやってくる優しい風と共に子供たちを包んだ。
ピリスに拾われてから二年後、八歳となったロッティの元へ引き取りたいという夫婦が尋ねてきた。不妊症の妻で、どうしても子供が欲しいとのことでこの孤児院に訪れたようだ。幼いロッティには詳しい話は分からず、ただここから違う場所へ連れていかれることだけは理解できて、頑なにピリスの傍らから離れようとはしなかった。ピリスの袖を掴み、怖いものでも見るようにその夫婦に怯えて近づこうとしなかった。
「いってらっしゃい、ロッティ君」
ピリスはロッティを見送ろうとしていた。ロッティはそんなピリスの態度に狼狽し、瞳を潤ませながらピリスの顔を懸命に見上げた。ピリスもロッティのことを見下ろすと、唇を力強く噛み、ロッティの目線にまで腰を落とし、震える両手をロッティの肩に優しく置いた。ロッティを見つめるその眼差しは、悲しい色を佇ませながらも、とても力強かった。
「自分の幸せを探す旅に行ってらっしゃい。僕はいつでも、この場所から見守っているから」
「約束だよ」とピリスは最後に付け加えた。しばらくして、ロッティがようやくのことで頷くと、ピリスも瞳に悲しい色を佇ませたまま、嬉しそうに頷き、そっとその手を離した。
その約束は、自分と自分の安らかな世界とを繋ぐ唯一の絆であると確信し、絶対にこの言葉を忘れまいとロッティは胸に深く刻み込んだ。その言葉のおかげで、ピリスとはまた会えると信じられたロッティは、ようやく夫婦の元に行き、婦人の手を繋いで船へと向かっていく。その最中も、ロッティは時々ピリスの方を振り返り、その度に、それに応じるかのようにピリスは微笑んでくれた。
孤児院しか知らなかった、小さな箱庭の世界からロッティが、扉を開けて新しい外の世界に出た日であった。
それが、ロッティと孤児院の院長、ピリスとの最後のやり取りとなってしまった。