第5話
文字数 3,197文字
入った部屋の中央に長いテーブルと、それを挟むようにして黒いソファが二つ置かれていた。向かいのソファには白い顎髭を膝まで届きそうなほど伸ばした老人が座っており、中に入ってきたロッティたちのことを品定めするようにじっと見つめてきていた。くすんだ色をした瞳ではあったが、その眼差しには威厳が込められていた。
「そこにかけてかけてください」
ロッティたちは会釈して、慎重にソファに座った。座り心地の良いソファの上でロッティが挨拶の言葉に頭を悩ませていると、隣からゆっくりと口を開く気配がした。
「村長、少しの間お世話になります。直にここを出ますが、よろしくお願いします」
ガーネットがそこで深く頭を下げたので、ロッティもそれに倣った。黙ったままの村長が気になってゆっくりと顔を上げて村長の様子を窺うが、村長は寂しさとも悔しさともつかない複雑な表情でこちらを見つめていた。
「そなたが来たということは……もう、そろそろなのですな」
村長のその言葉は、ガーネットに語りかけているようにも聞こえたし、悲しい独り言のようにも聞こえた。
「まだ……まだ三年は少なくともあります」
「たった三年だ……長い年月をここで過ごしてきた、我らにとってはな」
村長はそこで遠くを見つめるように天井を仰いだ。昔を懐かしむような赤い瞳に、ロッティは村長の言葉を待つことにした。
「本当に長い時間をここで過ごした……我らの先祖はこの世界の人間に追われ逃げるようにしてこの大樹ユグドラシルの下に我らだけの楽園を築き上げたが……その楽園も、結局永遠ではなかったみたいだ」
物語を読み上げるような村長の語り方は、まるでその物語を嘆いているような響きがあり、その物語の登場人物たちに憐れみを抱いているような口振りだった。
「我々は、外の世界を何も知らないまま……いや、来るべき結末は知っている。しかし我々は、恐怖の未来がやって来るのを知っていながら、それでも外の世界を知ろうとしないまま、この土地で怯え過ごしてきた。この日々が正しかったのかは、この村の誰にも分からないだろう」
村長はそこまで語ると、すっかり疲れ切ったような顔になって俯いた。
「私たちは、そんな未来を変えるために動いています」
「それは……本当に可能なことなのか」
村長がガーネットを縋るように見上げた。ガーネットは動じてはいなかったが、その言葉には何も応えられなかった。
「この村にも、私含めミスティカ族の者は住んでいる。だが……三年と少しの未来、そこを無事に乗り越えた未来を見た者は、誰もいない。それでもそなたたちは、何かが出来るとお考えですか」
苦しそうに吐き出された村長の言葉は、どこか諦めきった想いが滲んでおり、答えを待っているのではないらしく、村長は諦めたようにため息をついた。
「私一人では、難しいでしょう……でも、私の隣にはロッティがいます」
ガーネットの声はわずかに上ずっており、少しだけ震えていた。しかしガーネットは、ロッティの膝の上に置かれている手をそっと握って、村長に真剣な表情を向け続けていた。
「ロッティとなら……この青年なら、きっと選んでくれます。悲惨な未来ではない、誰も見たことがない未来を……私は、そう信じています」
ロッティも村長の言葉に想うところがあったので、何か口添えしようかと思っていたが、ガーネットの手の握る力が強くなっているのに気がつき、ガーネットの手にもう片方の手をそっと乗せることにした。ロッティの手に包まれたガーネットの手の震えは、静かに収まっていった。
「……そうか」
話しはそこで終わりだとでも言いたげに村長は立ち上がると、そのまま窓際まで歩いていき、じっと窓の外の世界を眺めた。その後、特に何を話すこともなく、ガーネットに連れられ家を出るまで、村長は一瞬たりともこちらに視線を寄越さなかった。外に出たロッティは、村長が見ていたものと同じものを見ようとして、大樹の上から村の様子を見下ろしてみた。
大樹から伸びている枝に乗っかっている家々も、遥か下に見える家々もこじんまりとしていた。村の外に目線を向ければ、いつの間にこんなに歩いてきたのかと思うほど雄大な森が広がっており、その先にようやく平原や小さな街のようなものが見えた。普通の人が近づけないようになっており、普通の人が住む世界から切り離されたように静かに存在している村を村長は楽園と呼んでいたが、その説明にロッティは漠然とした違和感を覚えていた。
ガーネットによると、ここにしばらく滞在し、連れてきた子供たちがこの村に馴染み始めたら、ある人を連れて帝都に向かう、ということであった。それを把握したロッティは、村を去るまでの間、二度と訪れるかどうか分からない村の景色を目に焼き付けてみることにした。
村の外に軽く散歩に出てみるも、どこまで歩いても他の人と遭遇する気配がまるでなく、ひたすら神々しい樹々の合間を歩くだけに終わった。初めはどこか神秘的と思えた雰囲気の森も、次第にその魅力は色褪せ、いつからかシリウスの汗臭い雰囲気が恋しくなったりもした。ロッティは次第に村の外へ赴く頻度を減らしていった。子供たちの何人かはこの村で過ごしているうちに、まるで初めて会ったときのガーネットのような雰囲気で口を利かなくなったり、涙を流しながら眠りから目を覚ましたり、眠る前宿に来てガーネットに抱き着いては泣いてしまうようになっていった。その一部の子供たちの変化をロッティは哀しく思いながらも黙って見守っていた。
しかし、そうした変化を通じて、却って子供たちも村の雰囲気に馴染んできたようだった。次第にイグナーツに託され、ロッティたちが連れてきた子供たちは、初めはどこかこの村の人たちによそよそしかったのが、いつの間にか、最初からこの村の住人であったように振る舞っていた。子供たちがこの村の子供たちと遊んでいる光景を、少し高い枝の上からロッティが眺めていると、隣に座るガーネットが「明日旅立とう」と告げた。ロッティがこの村をひたすら歩いたり、子供たちの相手をしている間、ガーネットはほとんど大樹の上で広い風景を眺めながら風に当たって過ごしていた。ロッティも時折そんなガーネットの隣に座っていた。
「そうか、分かった」
ロッティの返事に、ガーネットは控えめにくすっと笑った。その笑い方が、ロッティの耳をくすぐった。
「初めて会ったときから、貴方はそんな風に二つ返事で私の言うことに付き合ってくれたね」
「そうは言うけど……俺も、あのときから少しは変わってる……と思うが」
「分かってる……充分、分かってるよ」
ガーネットは靡く髪を押さえて、慈愛に満ちた優しい目つきで森の向こうを眺めた。つられてロッティもガーネットと一緒にその方向を見る。
森の向こう側は、街や建物らしきものが点在しながらもはるか先まで寂しそうな草原が続いており、地平線の向こうには空が広がっていた。地平線のすぐ上では、雨を降らせそうな黒い入道雲がもわもわっと立ち昇っており、寒い季節がやって来ているにもかかわらずロッティの脳裏には蒸し暑さが蘇っていた。その雲が途端に世界の広さを表しているように思え、同時に、草原から空まで一緒くたに眺められるこの場所がとても愛おしいもののように思えた。