第12話
文字数 3,663文字
燃え盛る街の中、ガーネットは必死に火の手を避けながら、時折飛んでくる剣や弓矢、銃弾から逃げていた。追われながらもガーネットは、決して地下に逃げようとしなかった。
弓矢はすでに逃げるときの重荷になるため捨てており、手元には二発しか銃弾のない銃しか残っていなかった。ヨハンと距離を保ちつつ逃げている間に、腕と脚の片方ずつに深手を負い、滴る血を死体の血に紛らわせながら撒こうとしても的確に飛び道具が飛んでくる。一思いに殺さずに、じわじわと獲物をどこかへ追い詰めるようなやり方に、ただでさえ何発も弓矢を放ったり無理な体勢で銃を放ったりして疲労が蓄積していたガーネットの体力は、着実に奪われていった。それでも、ガーネットは地下はおろか建物の中にすら入らずに逃げ続けていた。
路地裏を通り、建物の陰から出た瞬間に、折れた剣が飛んできて脚を掠めた。
「あっ……!」
その拍子に前のめりに転んでしまい、傷の痛みが全身に響く。その痛みに再び呻く。すぐに立ち上がろうとしても体になかなか力が入らずに悶えてしまう。そんな自分の情けなさにガーネットは奥歯を思い切り噛みしめる。
後方で誰かが地上に降りたつ音が聞こえた。その次に、前方から数名の土を踏む音がかすかに聞こえてきた。
「無様だね、ガーネット」
後方からヨハンの声が近づいてきた。得意げな声は、獲物をようやく追い詰めることが出来てご満悦な顔が思い浮かぶような声だった。
「そんな姿になってまで、君は何がしたいんだろう。まさか、まだ生き残れるつもりでいるのかい。僕の予知してきたどの未来でも、君はこの惨禍の中で生き残ったことはないけどね」
ガーネットは力を振り絞り、何とか立ち上がろうとする。しかし、ヨハンは非情にも銃の引き金を引き、銃弾はガーネットの肩を掠めた。
「っぁあ!」
ガーネットは大声を上げ、糸が切れたように再び地面に倒れた。掠めたところが熱を帯び、思わず肩を押さえる。その様子をヨハンは何もせずにじっくりと見ていた。
「何が、したいか……ですって? ……っ……そんなのっ、決まってるじゃない」
ガーネットの耳に、前方で聞こえていた足音がこちらに近づいてくる音が届いてきた。そのことはヨハンも気づいているだろうに全く動揺する素振りを見せず、落ち着いた様子でガーネットの話すのを律義に待っていた。
「私も、信じているの。百年生きてきても、見られなかった……望んだ景色を……ロッティや、彼の友人が、叶えてっ……くれるって」
ガーネットは建物の壁に手を当てながら再び立ち上がった。そのままヨハンから逃げようと足を踏み出す。傷を負った方の足で踏み込むと激しい痛みに襲われるが、それでも気力を振り絞り何とか歩いていく。
「ロッティが……アリスや、助けようとして救えなかった少年の死の運命をも乗り越えて、そんな世界を見ようとしている……私は、ずっと昔から、そんなロッティを信じてきた。貴方がこちら側に、着かない理由はっ……分からないけど……でも、だからこそっ……貴方を、ロッティに近づけさせるわけには、いかない!」
ガーネットは、傷を刺激しないように歩くコツを身に着け始め、スムーズに歩けるようになっていった。やがて前方の足音がこちらにやってきた。大層な装備をした帝都直属の騎士であった。
「こちらで銃声のようなものが聞こえたが、大丈夫か」
「はい、あの人にっ、追われているんです!」
ガーネットが精いっぱいに腹部に力を入れて一息で言った言葉が届くや否や、「あいつは昔指名手配された!」と一人の騎士が叫び、一斉にヨハンのほうへ飛び掛かっていった。同じように指名手配されていても、目の前で深い傷を負い血を流しながら苦しそうに歩くガーネットの方は怪しく見えなかったらしい。賭けに勝ったガーネットはその騎士の間に隠れるように身を潜め、地面に伏して、最後に残された銃をヨハンの方に向けた。ヨハンは恐ろしい反応速度で騎士の剣を捌きながら確実に一人一人仕留めていった。ガーネットは心の中で騎士たちに深く詫び、重い罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、銃口をヨハンに向け続けることに集中した。
ヨハンと騎士たちの攻防は、そう長くは続かなかった。かすり傷を負いながらもヨハンは難なく騎士たちを跳ね除け倒していた。その瞬間に、ガーネットは指に力を込めた。しかし、銃弾はわずかに急所を逸れて肩口に命中しただけだった。ヨハンは血相を変えてガーネットに向かって走ってくる。
ガーネットは、その形相から読み取れた感情に、二発目を撃つのを躊躇してしまった。そのせいで為す術もなくヨハンに首を掴まれ、乱暴に無理やり起き上がらせられると、壁へと押し付けられた。後頭部を打つ痛みと首を絞められる感覚に呻き声を上げてしまう。
「君はやっぱり、分かっていないみたいだね……君は言ったね。ロッティを信じているって。だから僕をロッティに近づけさせるわけにはいかないと」
ヨハンが首を絞める手に力を込め、ますます息が苦しくなる。ガーネットは無意識にヨハンの両手を掴み離そうとするが、元々そんなに力があるわけでもなくその上深い傷まで負っていたガーネットの力はヨハンに全く通用しなかった。
「確かに、それなりに白い目で見られてきて、アリスという少女やあの子を亡くしてもなお、前を向こうとする強さが彼にはあることは認めよう。僕も今まで予知夢で見てきたからね。でもそれは、ある前提の上に成り立っている代物なんだ」
ガーネットは、ヨハンの真意を確かめようと感情を読み取ろうとするが、首の絞まる苦しさに焦点が合わない。取り返しのつかない大きな勘違いをしていたような、妙な胸騒ぎが心臓の鼓動と重なって泣き出しそうになる。
「それはね、君が生きていることなんだよ。彼も……どれだけ覚悟を固めても、三年以上寄り添ってきた唯一の理解者を失ってなお前を向けるほどの強さは、持っていなかったんだ。僕たちミスティカ族は、自分の死後の未来はよほど能力が強くない限り曖昧にしか分からないからね。自分の死ぬ未来しか見えていなかった君が分からなかったのも無理はない」
ガーネットの瞳から涙が零れ始めた。それは決して苦しさからくるものではなかった。予感は確信に変わり、ガーネットは何とか声を出そうとするも、絞り出せたものは意味を持たない喘ぎ声ばかりであった。そんなガーネットの胸の内とは対照的に、ヨハンの声は背筋が凍るほど淡々としていた。
「君を失った後の彼の迷いこそが、その先の運命が大きく揺れ動くターニングポイントだったんだよ。僕の見てきた未来も、どれも惨く、そして不確かだった……でも、どの未来でも君は死んでいた。だから僕には分かったんだ」
そのとき、城の方でいくつもの大砲槍が発射される轟音と、その直後ノアのと思われる甲高い小さな悲鳴が順に聞こえてきた。その声に、ガーネットはノアの背中にある賢者の石の爆弾が落とされたのではないかという懸念が頭を過った。しかし、同じようにそれを聞いているはずのヨハンは少しも力を緩めずガーネットの首を押さえつけたままであった。
「僕も同じだった。僕の好きな人には、ただ生きてて欲しかった……どうしてこんな簡単なことすら叶わない世界なんだろうね。運命というのは、本当に残酷で……僕が愛したたった一人の人間すら、救ってくれやしない」
最後の最後に聞いたその言葉には、涙が流れていた。ふと力が緩められ、ようやく焦点が合うようになった瞳に映ったのは、まるで少年のような純粋な顔で、どこか遠い風景を懐かしむような表情であった。憑き物が落ちたようにすっきりした顔つきでガーネットのことを羨ましそうに見つめていた。そこにはリベルハイトとしてのヨハンの仮面はどこにもなく、今まで呼びかけ続けても仮面の裏に隠れ続けていたヨハン『・ジルベール』としての顔がようやく現れていた。
貴方もこっちに来なさい、そう叫ぼうとするも声が出なかった。もっと話すこと、言ってやりたいことが山ほどあるのに、まるでそのことを見透かされたかのように喋ることが出来ない程度に首を絞められたままであった。直後、ヨハンがガーネットの首根っこを捉えたまま建物の扉を開け、ガーネットを放り投げた。床に叩きつけられると思ったガーネットは身構えるが、床の感触はやってこず、そのまま落ち続けていくのを感じた。ふと目を開けると、ヨハンの儚く切ない笑顔が映った。しかしその印象的な笑顔は、途轍もない爆音とともに爆風にさらわれていった。どうして自分は大丈夫なのかと疑問を持つ間もなく視界が真っ暗になり、やがて何かに後頭部をぶつけた後マットのような弾力のあるものに落ちた。
ヨハンの最期の言葉を反芻し、もっと他の道はなかったのかと自分自身に問い続けるも、やがて死の爆発から逃れた安心感からか、どっと身体に張り巡らされた緊張感が解けていった。傷の痛みが鮮明になっていき、それに伴って意識が麻痺していき、次第に薄れていった。