第3話
文字数 3,527文字
アリスが向かっているのは、帝都の中でも治安も役人の目も行き届いていない下町だった。そんな場所にアリスが通うようになったきっかけは、やはりグランであったそうである。初めは下町の人間に良い顔をされず、かといって横にいるグランが怖くて襲うことも出来ないでいた下町の人間に、ひたすらアリスの好意を非難されたり、偽善者だと罵られたり散々な目に遭っていたらしい。しかし、それでもアリスはめげずに何度も下町に通っては、話をしたり聞いたり、ときどき菓子を配ったりしていた。そのアリスのひたむきで健気で、一途な姿勢に下町の人間も次第に心を開いていったという。
「ほらロッティ、何ちんたら歩いてるの。早く行きましょう」
アリスがロッティの方を振り向き、笑顔で呼びかけてきた。アリスは常に笑顔を浮かべていた。その笑顔には、裏表など一切感じられない、純粋で清らかな心がありありと現れていた。そんな笑顔を見せられれば下町の人たちが心を開くのもおかしなことではないと、ロッティはアリスの笑顔に対してそんな感想を抱いていた。
街並みが変わり、活気もわびしく寂れた静けさが辺りを満たしているところに出てくると、アリスは早速すぐ近くの建物に入っていった。ロッティもアリスの姿を見失わないように追っていく。
「はい、これどうぞ」
「ああ、いつもありがとうね……」
「どうですか、昨日から今日までの間でどんなことがありましたか?」
アリスは力なく椅子に座っていた中年の男性にパイを渡しつつそっと話しかけては、その人の話に耳を傾けていた。一通り話をし終えると、アリスは朗らかな口調で別れを告げ、次の建物へと向かって行った。しばらくすると、アリスの訪れる時間帯を把握しているのか、比較的広いところに出ると何人かが集まっており、アリスはその集団に嬉々として駆け寄っては皆に混じって談笑していた。ロッティとバニラは、そのアリスのやり取りを固く見守っていた。いつもと違うアリスの付き人であるロッティを興味深げに見つめてきたり、話しかけてくる者もおり、ロッティも適度に言葉を交わした。アリスの持ってきたリンゴのパイを頬張り、あちこちから称賛の声が飛び交い、アリスも嬉しそうに笑った。
下町の人と話している間、アリスは一度も嫌な顔をしなかった。それどころか、グランやロッティたちと話しているときと同じように、話している相手と一緒に笑ったり、悲しんだりと表情豊かに会話しており、嬉しいことがあったときには一緒に喜びあっていた。誰が相手でもアリスはその人と目を合わせ、その人の目線で話に感情移入し、感情を共にしていた。そんな慈愛に満ち溢れた人物が本当に存在しているのだと、ロッティは驚くばかりであった。
「すべてはグランがいたから……か」
「その通りです」
ロッティの隣に並んで同じようにアリスのことを見守っていたバニラが、ロッティの独り言に反応した。バニラは愛しそうにアリスを見つめながら、話を続けた。
「私にも救えなかったお嬢様の心を支え、救ったのがグラン様でした。何より、グラン様はお嬢様にとって初めてのお友達でした。そんなグラン様のことを知っていくうちに、お嬢様は社会的に恵まれない人の力になろうと理想を掲げるようになりました」
「……言っておくが、俺たちの存在はそんな生易しい物じゃ……」
「分かっています。私も、そして私以上に、お嬢様も」
集まっている人たちにリンゴのパイを配り終えたのか、バニラの元へ一旦戻ってきて、バスケットを預けた。バニラが受け取ると、アリスは再び集まってきた人たちの輪に加わり、楽しそうに談笑して盛り上がっていた。アリスのテンションに中にはついて行けてない者もいて、そういった人たちはいまいち乗り切れていなかったが、それは単純にアリスが人並み以上にテンションの上がりやすい性格をしているだけである。皆もアリスのその性格をすっかり把握しているのか、アリスはその人たちの輪にひどく馴染み、皆も温かな目を向けていた。
手元からリンゴのパイの焼き立ての良い匂いが香ってきた。
「候補娘として最後に生まれた上に成績も最近になってようやく真ん中になってきたばかりである故、城の者もある程度放置するような形で、お嬢様の行動にあまり目を掛けてはいませんが、それでもお嬢様も次期皇女候補。頻繁に街に降りて行くのを不審に思う者も少なくありません。それでもお嬢様は、グラン様のところや、ここに来ることを止めませんでした。お嬢様は、決して自らの理想を曲げず、その理想に沿わぬことは決してしたくないと拒みました」
アリスがロッティの方を指差して何か話していた。おそらく、いつものグランの代わりに来たロッティを不審がる人もいたのだろう、その説明をしているのだとロッティは考えた。アリスはその説明の最中も、嬉しそうに微笑を佇ませたままだった。
「貴方たちがどういう存在なのかも、お嬢様が貴方たちを匿っていることが城の者に知られればどうなるかも、私たちは分かっています。それでもお嬢様は、貴方たちといることを望みました。私も一時期悩みましたが……お嬢様の覚悟の深さに触れ、私もお嬢様の意志を尊重することに決めました。ですので、ロッティ様たちもどうか、お嬢様から離れるなんてことを考えないであげてください。お嬢様が悲しみます」
アリスは一通り交流し終えたのか、皆に手を振りながら再びロッティたちの方へ戻ってきた。バニラの手を引き、「次行くよー」と無邪気にはしゃぎ、足を弾ませながら、再びバスケットを腕にぶら下げてご機嫌そうに揺らした。置いてかれないように一歩引いた距離を保ってついていくと、再び幸せそうな鼻歌が聞こえてきた。そんなアリスを見て、ロッティは、世界のためといった大義名分など関係なく、この少女のことは守らなければならないという使命感を強く覚えた。
それからこれまでと同じように、背の低く寂れた建物を訪れてはバスケットに入ってるリンゴのパイを渡し、いくらか雑談を交わして、次の人のところへ向かう、ということを繰り返していった。バスケットの中身も残り数個となったところで、アリスが「次が最後かなー」と再び別の建物へと入っていく。
中へ入ると、その部屋の中だけで台所やベッドなどが一通りそろっており、その隅に隠れるようにして座っている少年がいた。髪も不揃いで雑に短く切られており、服も布切れのようにぼろぼろになっていた。
「こんにちは。今日もアリスお姉ちゃんが心配になって来たよ」
アリスは少年の目線に合わせるようにしゃがみ、今までと比べ些か控えめな音量で語りかけた。少年もぼんやりと虚ろな瞳を持ち上げ、アリスと目が合うと、いくらかその瞳に感情が灯った。それを確認してからアリスはバスケットに手を突っ込み、おまけなのか、リンゴのパイを三つも差し出した。少年もそれらを掌に受け取った。アリスはバニラに目配せし、水がいっぱいに入った小樽をバニラがアリスに手渡し、アリスはその小樽を少年の傍らに置いた。しかし、依然として少年の雰囲気は暗く、未だに言葉も発していなかった。アリスはそのまま少年の横に座り、ロッティたちにも座るようにジェスチャーしてきた。バニラがさっと適当な場所を見つけて座っていくのを見て、ロッティも少年とアリスが見える位置に座った。アリスは少年に話しかけるでもなく、一緒になってぼんやりと宙を眺めていた。今までと明らかに対応の違う様子に、何が何だか分からなかったロッティは、とりあえずアリスに倣って宙をぼんやり眺めることにした。
時間としては、おそらく下町の人間の中でもこの少年に対して一番長い時間共にしていただろうか。その間、アリスから時折独り言のように少年に話しかけていたが、少年が言葉を返したのは数回程度だった。夕陽の赤い光が窓から部屋の中に差し込み、アリスと少年の寄り添うような影が伸びてくると、「じゃあ、そろそろ行くね」とアリスが立ち上がった。
「明日もまた来るからね」
アリスはもう一度少年の目線に合わせてそう言って、それからその部屋を後にした。ロッティも振り向いて少年の様子を確認しながら、部屋を後にした。